2023年4月9日の礼拝宣教から 

「見て、信じた」 ヨハネによる福音書20章1-10節

津村春英牧師

復活祭・イースターを記念する根拠は、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(1コリント15:14 )にあると思います。ヨハネ福音書によると、主イエスが葬られた墓には最初、マグダラのマリアが訪れました。墓の入り口を閉じていた石が動かされてあるのに気づき、誰か(複数)が取っていったと判断し、急いでペトロと主の愛しておられた弟子(ヨハネ)に告げ、彼らも墓に行きました。年長者であり、弟子たちのリーダー格であったペトロが先に墓に入り、確かめると空になった亜麻布と頭を包んでいた布だけがありました。ヨハネも入り、それを「見て、信じた」とあります。復活された主を直接見たわけではありません。それは遺品を見て、故人が確かにこの世に存在したことを思い起こすことも同じでしょうか。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。キリスト者は、たといどのような暗闇の中に座すことがあっても、必ず、光に照らされるときが来るという復活信仰によって歩みたいものです。