2022年12月11日の第2部礼拝宣教から

「土の器は主の器」 コリント信徒への手紙二 4章7-11節

津村春英牧師

パウロは、「私たちは、この宝を土の器に納めています。」(2コリント4:7・聖書協会共同訳)と書きました。「宝」とは6節の「キリストの御顔にある神の栄光を悟る光」でしょうか。当時、金や銀や木の器(2テモテ2:20)、銅や、鉄や、大理石の器(ヨハネ黙示録18:12)などがありましたので、土の器では宝を入れるには、あまりにも不釣り合いです。それは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)とへりくだったマリアが、その胎に御子を宿して文字通り「主の器」となり、主の栄光を表したことと重なります。

さらに、土の器であるというパウロは、「私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです」(2コリント4:10、聖書協会共同訳)と続けました。下線部は、「死」(同11)という一点でなく「死にゆく」プロセスを強調し、キリストの福音を宣べ伝える者の苦しみは、主の復活という命につながる(ローマ6:4)と説いています。

私たちは土の器であり、主の器です。この主の器の「の」は①主のもの、主が憐れんでくださる器であり、また、②主のために用いられる器を意味します。私たちに、どんな欠けがあっても主の器です。主の愛を受ける器であるとともに、主の栄光を表す器なのです。

2022年12月4 日の礼拝宣教から  

「全ての人のための救い主」  ルカによる福音書2章8-20節

川﨑真奈神学生

12月に突入し、2022年も残すところあと1ケ月となりました。

さて今回の主人公は、羊飼いです。当時羊飼いは、社会の中で疎外され、貧しい身分に置かれていました。そんな羊飼いたちに、誰よりも早く救い主の誕生の知らせが届いたのです。

10節、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

このメシアなる救い主がもたらした「救い」とは、政治的な支配からの救いや、身体的・精神的な救いよりもはるかにスケールの大きいものでした。それは、人間の存在の根幹に関わる、霊的な死からの救いです。

イエス・キリストの誕生によって、人が罪の滅びから救われる道が開かれたのです。そして、その救いは私たち全ての人に与えられたものである。だから私たちは、自分たちに差し出されているこの救いの豊かさに感謝し、礼拝するのです。今、アドベントの時、私たちはこの”福音”を共に味わっていきましょう!

2022年11月27日の礼拝宣教から

「その日がやってくる」  イザヤ書12章1-6節

津村春英牧師

ロシアのウクライナ軍事侵攻から9か月経過しました。また、新型コロナウイルス(COVID-19)感染が報告されてから12月で3年になります。この苦しみから解放される日はいつくるのでしょうか。

旧約聖書に登場する預言者イザヤは、紀元前740-690年頃に南ユダ王国で活動し、北イスラエル王国と南ユダ王国について預言しました。そして、722年のアッシリアによる北イスラエル王国サマリア陥落を経験し、南ユダ王国についても、150年も後の586年のエルサレム陥落からバビロン捕囚、エルサレム帰還を預言しました。「その日に、あなたは言うであろう。/『1主よ、私はあなたに感謝します。/あなたは私に怒りを向けられましたが/その怒りを去らせ、慰めてくださいました。2見よ、神は私の救い/私は信頼して、恐れない。/主こそ私の力、私の歌。/私の救いとなってくださった。』…4その日に、あなたがたは言うであろう。/『主に感謝せよ、御名を呼べ。/もろもろの民にその業を知らせ/その名が崇められていることを告げよ。」(12:1-2, 4・聖書協会共同訳)とあります。私たちにとっては、「その日」はクリスマスです。主イエスこそ、私の力、私の歌、私の救いとなってくださったお方です。心から感謝し、主を賛美し、この喜びを全地(同5)に知らせましょう!

2022年11月20日の礼拝宣教から

「み言葉の力」  マタイ福音書8章5-13節  

津村春英牧師

ユーモアや笑いは私たちのストレスを軽減し免疫力を高めると言われます。「いのちの言葉」は私たちを癒し、養い、希望を与えてくれます。それは主イエスの言葉です。

紀元一世紀に、その「いのちの言葉」を求めた人がいました。彼は、ガリラヤ湖北西岸の町カファルナウムに駐留するローマ帝国の百人隊長でした。傭兵と思われますが、イスラエルの民(8:12御国の子ら)から見ると異邦人でした。実は彼のパイース(しもべ、あるいは男の子)は、体が麻痺していて(聖書協会共同訳以外は「中風」と表記するが死語)、ひどく苦しんでいました。彼は主イエスの権威(力)あるみ言葉を信じていたので、「ただお言葉をください。そうすれば私の子は癒されます。」(同8・聖書協会共同訳)と懇願したのです。主イエスは彼の信仰を称賛され、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」(同13)と言われ、その時、彼のパイースは癒されたのです。

詩編に、「あなたの御言葉(みことば)は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」(119:105)とあります。厳しい現実ですが、日々、み言葉を信じ、み言葉によって歩みましょう。

2022年11月13日の礼拝宣教から 

「祈ってください」  コロサイの信徒への手紙4章2-6節

津村春英牧師

2022年のみ言葉は、「絶えず祈りなさい」(テサロニケ一5:17)ですね。

毎日の生活の中で、どれほど祈っていますか。「一人祈るのは寝る前の数秒、ともに祈るのは集会か食事前のこれも数秒という信者がいかに多いか。これでは活発な主の御業を期待する方が無理であろう」(佐藤雅文『祈祷の生涯』、159頁)とは痛烈な批判です。

 パウロは、異邦人の多いコロサイのキリスト者に対して、「たゆまず祈りなさい。感謝のうちに、目を覚まして祈りなさい。同時に、私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘義を語ることができますように。」(4:2-3・聖書協会共同訳)と書きました。「たゆまず」は忍耐強く続けること、「目を覚まして」は油断なく注意することを意味しています。「キリストの秘義(ミュステーリオン)」(新共同訳:キリストの隠された計画、新改訳2017:キリストの奥義)とは、キリストの十字架、復活(高挙)による救いです(1:26, 27や2:2参照)。

私たちは、祈り、祈られて、互いに成長していくのです。成長する教会はよく祈る教会です。祈らない教会は消滅してしまうかもしれません。祈ることに熱心な教会を目指しましょう。