2021年11月28日の礼拝宣教から 

「実を結ぶ若枝」    イザヤ書11章1-5節

津村春英 牧師

コロナウイルスの新たな変異株オミクロン株が今、問題になっています。この株は、英語ではstrain、株式の株はstock、そして今日、着目する株はstump切り株です。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」(11:1)と旧約の預言者イザヤは預言しました。「エッサイ」はダビデの父ですが、ユダ王国を指し、「芽」や「若枝」は、直接的には第二のダビデを意味します。「育ち」と訳されているヘブライ語パーラーは「実を結ぶ」とも訳されます(邦訳ではフランシスコ会訳、新改訳2017など)。イザヤ10章の切り倒されたレバノンの大木はアッシリアを指すのに対して、ユダはぶどうの木のように実を結ぶ木に例えられているのでしょう。このように北イスラエルを倒したアッシリアも、そしてユダも、やがてバビロンによって滅ぼされますが、切り倒されたという絶望的な状況の中から、救い主が生まれ、民に救いがもたらされる(実を結ぶ)という希望の預言なのです。新約時代の人々は、この「実を結ぶ若枝」をイエス・キリストと理解しました。

クリスマス、それは救い主イエス・キリストのご降誕をお祝いするときです。悲惨な現実の中にも救いがある、希望があるということを教えられます。感謝して、このお方を私たちの心にお迎えしましょう。

2021年11月21日の礼拝宣教から

「人生の土台」   マタイ福音書7章24-29節

吉田 隆 牧師

東日本大震災で多くの人々が犠牲になりましたが、難から逃れた人が、生きていてよかったとは言わずに、なぜ自分が生き残ったのかを問いました。このコロナ禍の中では、何のために何によってどこに向かって生きているのかを誰も教えてくれません。何千年にもわたって無数の人々を生かし、確信と希望を与えてきたのは聖書です。人間とは何なのかを教えてくれる唯一の書です。主イエスは言われました。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(7:24~27)と。立派な家、つつましい家があるでしょう。その家を建てるのに苦労し何年もかかる場合があります。しかし、どういう家を建てるかでなく、どこに建てるのか、どんな土台の上に建てるのかが問題です。家は人生そのものです。岩は聖書でありイエス・キリストです。この上に家を建てるならどんな時も私たちを救い上げてくださいます。この揺るがない土台の上に家を建てるように、そういう人生を歩んでいただきたいと思います。           (文責:津村春英)

2021年11月14日の礼拝宣教から

「刈り入れの喜び」   ヨハネ福音書4章31-38節

津村 春英

日本のプロテスタント・キリスト教会、とりわけ福音派を標榜する教会の信仰者は、ともすれば先祖を軽視しがちだと思います。それは祖先崇拝に至ることを危惧するからです。ところが旧約聖書の歴史書には多くの系図が見られ、新約聖書でもマタイ福音書は系図で始まっています。ですから、キリスト者も先祖を大切にすべきだと思うのです。だからと言って、お骨やお墓を拝むのではありません。拝むべき方は神様だけです。

ヘブライ書11章では旧約聖書に出てくる信仰の偉人が列挙され、12章ではそのような偉人に雲のように囲まれているので、各々、定められた人生レースを走り抜くように勧められています。そして、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」(13:7)とあります。雲のように群れなす人々の中に、私たちより先にその道を完走した信仰者の家族も含めたいと思います。彼らも私たちにみ言葉を語りました。「思い出しなさい」は「覚えていなさい、心に留めていなさい」とも訳すことができ、継続した勧めなのです。先人が厳しい現実の中にあっても信じ抜いたお方、イエス・キリストは、昨日(過去)も、今日(現在)も、いつまでも(未来)変わらない、と約束されています(同8)。先人の信仰に倣って希望をもって進みたいと思います。

2021年11月7日の礼拝宣教から

「先人に思いをはせる」  ヘブライ人への手紙13章1-8節

津村 春英 牧師

日本のプロテスタント・キリスト教会、とりわけ福音派を標榜する教会の信仰者は、ともすれば先祖を軽視しがちだと思います。それは祖先崇拝に至ることを危惧するからです。ところが旧約聖書の歴史書には多くの系図が見られ、新約聖書でもマタイ福音書は系図で始まっています。ですから、キリスト者も先祖を大切にすべきだと思うのです。だからと言って、お骨やお墓を拝むのではありません。拝むべき方は神様だけです。

ヘブライ書11章では旧約聖書に出てくる信仰の偉人が列挙され、12章ではそのような偉人に雲のように囲まれているので、各々、定められた人生レースを走り抜くように勧められています。そして、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」(13:7)とあります。雲のように群れなす人々の中に、私たちより先にその道を完走した信仰者の家族も含めたいと思います。彼らも私たちにみ言葉を語りました。「思い出しなさい」は「覚えていなさい、心に留めていなさい」とも訳すことができ、継続した勧めなのです。先人が厳しい現実の中にあっても信じ抜いたお方、イエス・キリストは、昨日(過去)も、今日(現在)も、いつまでも(未来)変わらない、と約束されています(同8)。先人の信仰に倣って希望をもって進みたいと思います。

2021年10月31日の礼拝宣教から

「神はわたしたちの避けどころ」詩編46篇1-12節

津村 春英

人生は見方によれば苦難の連続です。私たちには「避けどころ」が必要です。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(2)とあります。「避けどころ」とは、旧約聖書の用法では実際には豪雨や洪水からの避けどころです(ヨブ24:8; イザヤ4:6; 25:4; 28:15など)。「砦」は「力」とも訳されます。強固な石垣で囲まれた砦は力の象徴です。「必ずそこにいまして助けてくださる」は意訳で、直訳は「大いに見出される助け」です。この詩の背景には、南ユダ王国が北のアッシリアからの攻撃を受け、城壁の町が次から次と陥落し、ついにエルサレムまで迫っていた状況が考えられます。エジプトに助けを求めようという民の思い(イザヤ30:2; 31:1)に対し、預言者イザヤは、主なる神に助けを求めよと勧めました。

今日の箇所には「罪」という言葉こそ出てきませんが、そんなに素晴らしい神がおられるのに、エジプトに助けを求めることが、神の選民と言われた古代イスラエルには神への裏切りであり、罪でした。では、私たちにとってエジプトとは、その戦車とは、騎兵とは何でしょうか…。苦難のとき、私たちも真の避けどころであり、力である神に向かわねばなりません。罪を贖ってくださった主イエス・キリストが導いてくださいます(ヨハネ14:6)。