2022年12月25日の礼拝宣教から

「主を賛美しよう」    詩編145篇1-9節

津村春英牧師

コロナ禍と言われて久しく、もう3年を数えます。皆さんにとって、この一年はいかが
でしたか。私は、振り返れば、いろいろなことがありましたが、感謝、感謝、感謝です。
詩編145篇には、「大いなる主、限りなく賛美される主 大きな御業は究めることもで
きません。」(145:3)とありますが、この下線部のヘブライ語は、「地を掘って探す」
を意味し、神様のお考えは人知をはるかに超えていて、「測り知れない」(聖書協会共同
訳)というのです。新約聖書のことば、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれ
ほどのものであるか」(エフェソ3:18)と響き合います。そして、「あなたの輝き、栄光
と威光 驚くべき御業の数々をわたしは歌います」(145:5)の下線部は、「思い巡らし
ます」(聖書協会共同訳)とも訳されていますが、これらの訳の違いは、ヘブライ語単語
の語形の解釈の違いです。ここは前者が妥当と思われますが、後者なら、「マリアはこれ
らの出来事を…思い巡らしていた」(ルカ2:19)と響き合います。エリサベトを訪問、
ナザレからベツレヘムへの移動、出産と飼い葉おけ、羊飼いの訪問など、予期せぬ出来事
の中にも喜びがあり感謝が溢れています。主を賛美しよう。

2022年12月18日の礼拝宣教から 

「主の救いを見る」  ルカによる福音書2章22-32節  

津村春英牧師

主イエスの時代のエルサレム神殿(境内)はおおよそ南北500メートル、東西300メートルの面積で、東京ドーム約3個分の大きさと考えられます。そこに集まる人々を相手に売り買いする人々、両替人、いけにえの鳩を売る人々もいて、そんな中で人を探すのは至難の業です。ただし、シメオンには聖霊が留まり(2:25)、救い主に会うまで決して死なないとのお告げを聖霊から受け(同26)、聖霊に導かれて神殿の境内にやって来たとあります(同27)。そしてついに、「わたしはこの目であなたの救いを見た」(同30)と言うのです。この話のキーワードは「聖霊」(神の霊)です。

 聖書(直接的には旧約聖書をさす)は神の霊の導きの下に書かれた(2テモテ3:16)とあり、ルカ福音書のはじめには、「すべてのことをはじめから詳しく調べ、順序正しく書いている」とあるように、「聖霊に導かれる」とは、夢遊病者のような神がかりになることを必ずしも意味しません。時には冷静に物事を判断できるように導かれます。シメオンは救い主の誕生のニュースを聞き、母マリアの清めの期間40日を数え、神殿にやって来る貧しい夫婦にターゲットを絞り、救いを見たのです。私たちにも救いが必要です。聖霊の導きにより、今日、ここで、「救い主」にお会いしたいと思います。

2022年12月11日の第2部礼拝宣教から

「土の器は主の器」 コリント信徒への手紙二 4章7-11節

津村春英牧師

パウロは、「私たちは、この宝を土の器に納めています。」(2コリント4:7・聖書協会共同訳)と書きました。「宝」とは6節の「キリストの御顔にある神の栄光を悟る光」でしょうか。当時、金や銀や木の器(2テモテ2:20)、銅や、鉄や、大理石の器(ヨハネ黙示録18:12)などがありましたので、土の器では宝を入れるには、あまりにも不釣り合いです。それは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)とへりくだったマリアが、その胎に御子を宿して文字通り「主の器」となり、主の栄光を表したことと重なります。

さらに、土の器であるというパウロは、「私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです」(2コリント4:10、聖書協会共同訳)と続けました。下線部は、「死」(同11)という一点でなく「死にゆく」プロセスを強調し、キリストの福音を宣べ伝える者の苦しみは、主の復活という命につながる(ローマ6:4)と説いています。

私たちは土の器であり、主の器です。この主の器の「の」は①主のもの、主が憐れんでくださる器であり、また、②主のために用いられる器を意味します。私たちに、どんな欠けがあっても主の器です。主の愛を受ける器であるとともに、主の栄光を表す器なのです。

2022年12月4 日の礼拝宣教から  

「全ての人のための救い主」  ルカによる福音書2章8-20節

川﨑真奈神学生

12月に突入し、2022年も残すところあと1ケ月となりました。

さて今回の主人公は、羊飼いです。当時羊飼いは、社会の中で疎外され、貧しい身分に置かれていました。そんな羊飼いたちに、誰よりも早く救い主の誕生の知らせが届いたのです。

10節、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

このメシアなる救い主がもたらした「救い」とは、政治的な支配からの救いや、身体的・精神的な救いよりもはるかにスケールの大きいものでした。それは、人間の存在の根幹に関わる、霊的な死からの救いです。

イエス・キリストの誕生によって、人が罪の滅びから救われる道が開かれたのです。そして、その救いは私たち全ての人に与えられたものである。だから私たちは、自分たちに差し出されているこの救いの豊かさに感謝し、礼拝するのです。今、アドベントの時、私たちはこの”福音”を共に味わっていきましょう!

2022年11月27日の礼拝宣教から

「その日がやってくる」  イザヤ書12章1-6節

津村春英牧師

ロシアのウクライナ軍事侵攻から9か月経過しました。また、新型コロナウイルス(COVID-19)感染が報告されてから12月で3年になります。この苦しみから解放される日はいつくるのでしょうか。

旧約聖書に登場する預言者イザヤは、紀元前740-690年頃に南ユダ王国で活動し、北イスラエル王国と南ユダ王国について預言しました。そして、722年のアッシリアによる北イスラエル王国サマリア陥落を経験し、南ユダ王国についても、150年も後の586年のエルサレム陥落からバビロン捕囚、エルサレム帰還を預言しました。「その日に、あなたは言うであろう。/『1主よ、私はあなたに感謝します。/あなたは私に怒りを向けられましたが/その怒りを去らせ、慰めてくださいました。2見よ、神は私の救い/私は信頼して、恐れない。/主こそ私の力、私の歌。/私の救いとなってくださった。』…4その日に、あなたがたは言うであろう。/『主に感謝せよ、御名を呼べ。/もろもろの民にその業を知らせ/その名が崇められていることを告げよ。」(12:1-2, 4・聖書協会共同訳)とあります。私たちにとっては、「その日」はクリスマスです。主イエスこそ、私の力、私の歌、私の救いとなってくださったお方です。心から感謝し、主を賛美し、この喜びを全地(同5)に知らせましょう!