2022年6月19日の礼拝宣教から

「信仰を問い直す」 ヨブ記42章1-6節

津村春英 牧師

 NHKの宗教調査(2018年)によると、近年、宗教離れが進み、宗教に癒しを求める人は減少し、むしろ、宗教に危険性を感じる人が多くなったというのです。人はどのようにして信仰の道に入り、それを全うするのでしょうか。

 旧約聖書の義人ヨブに、突然の不幸が襲いかかります。すべての財産と子どもたちを失い、自分も全身皮膚病に罹り、おまけに妻からも愛想をつかされてしまします。友達三人が遠路はるばるやってきて、因果応報論を説き、ヨブに悔い改めを迫りますが、ヨブは断固として自分の正しさを主張し、義人が苦しむ不条理を訴えます。最後に神から、ヨブに対する答えがあります。ヨブの知らない被造物の世界があり、その中には人間には制御できない力も存在するが、それらは神の創造の業の偉大さを示していると。ヨブは、自己の義に固執するあまりに神の御顔を見失っていましたが、「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(42:5)と、神を再発見し、御前における自己を見出すに至ったのです。それは新約聖書のパウロの心境にも通じます(コリント二12:9, 10など)。現状はどうであれ、神の愛は変わらない。そこから来る平安と希望が、私たちの信仰生活を導くのです。今一度、自らの信仰を問い直したいものです。

 

2022年6月12日の礼拝宣教から

「最も小さいものの一人にしたのは」 マタイ福音書25章31-40節

津村春英 牧師

最近は、学校の運動会が秋ではなく、この5月~6月に行われることもあるようです。そこでは、いくつかの組に分かれて競います。

主イエスは、弟子たちに、やがて、ご自分が王として再臨されるとき、人々は、羊組と山羊組に分けられて裁かれると話されました。後者には恐ろしい結末が待っていますが、前者は正しい人たちと呼ばれ(25:37)、御国を受け継ぐと約束されました。その理由は、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(同35, 36)と言われました。しかし、羊組の人々にはその記憶がありませんでしたが、主は続けて、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(同40)と言われました。「この最も小さい者」とは、上述の当時の困窮者、弱者を指していて、彼らへの行為は、実は主に対して成したことだと言われたのです。

私たちは善い行いをすることで、救われるのでは決してありません。主に愛されているからこそ、主を愛するように、「この最も小さい者たち」を愛するようにと勧められているのです。

2022年6月5日の礼拝宣教から

「愛によって働く信仰」 ガラテヤの信徒への手紙5章2-6節

津村春英 牧師

サンフランシスコから小型ヨットで太平洋横断単独無寄港の偉業を最高齢で達成された堀江健一氏(83歳)の航海中の通信手段は、衛星電話とアマチュア無線だったそうです。自分が今どこにいて、どこに進むべきか。キリスト者は、聖霊によって日々教えていただくことが必要です。

 パウロは、ガラテヤの教会に宛てて、「私たちは、霊により、信仰に基づいて義とされる希望を、心から待ち望んでいます。キリスト・イエスにあっては、割礼の有無は問題ではなく、愛によって働く信仰こそが大事なのです。」(5:5, 6・聖書協会共同訳、下線部は「聖霊により」の意)と書きました。神のみ前で「義とされる」ためには、割礼の有無が問題でなく、イエス・キリストの十字架の愛によって働く信仰こそが重要だというのです。

私たちは、今日、ペンテコステ(聖霊降臨)礼拝と創立119周年の記念礼拝を献げています。当教会の創立者・河邊貞吉師は、「聖霊を一度受けた者でも、満たされていなければ駄目である。…尊い大使命を全うするためには、聖霊なくして絶対不可能である…。」(『河邊貞吉説教集(1)』、昭和9年、pp.328-329)と説いておられます。聖霊に満たされて、キリストの愛をもっと深く知り、宣教の業に励むよう努めましょう!

2022年5月29日の礼拝宣教から

「みなしごにはしておかない」 ヨハネ福音書14章15-24節

津村春英 牧師

2022年5月6日の東京新聞社説「戦争と平和を考える トルストイを読み直す」に、「プーチン大統領よ、今すぐ読み直せ、と言いたい。」とありました。では、私たちは聖書をどのように読んでいますか。

 ヨハネ福音書研究で、書の成立の背景に会堂追放(9:22; 12:42; 16:2)という迫害があったとみる仮説(J.L.マーティン)があります。つまり、自分たちの厳しい状況と主イエスの出来事とを重ね合わせたと考えるのです。ヨハネ福音書では早くも13章から最後の晩餐が始まっていますが、ご自分が去ったあとに残される弟子たちに対して、「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである」(14:15・聖書協会共同訳)と語りかけられます。それは21、23節(私の言葉を守る)にも繰り返されていますが、この間に二つの約束があります。一つは、別の弁護者(真理の霊:聖霊、cf.イエスは弁護者(ヨハネ手紙一2:1))を遣わしてくださるよう、父に願われることであり、もう一つは、「あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたの所に戻って来る」(14:18、再臨)という約束です。これは、今日(こんにち)の私たちへのメッセージでもあります。繰り返しますが、私たちは聖書をどのように読んでいますか。

2022年5月22日の礼拝宣教から  

「信仰によって」 ヘブライ人への手紙11章17-22節

津村春英 牧師

アブラハムは独り子イサクを献げるように、神に命じられ、行動に移しました(創世記22章1-13節参照)。その理由を、ヘブライ書の著者は、「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。…アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。」(11:18-19)と表現しています。これは軽々しい言葉ではありません。下線部の原語のギリシア語「ロギゾマイ」は「ロゴス」が語源で、「信じた」というより、「よく考えた」の意味で、熟考の末、考えに考え抜いた結果、受け入れたということです。なぜなら、イサクは、長年の念願の息子であり、そこから子孫が生じるという約束を受けていた子だったからです。それはアブラハムにとって、極めて厳しい試練の時でしたが、最善をなさる神に全幅の信頼をおいて、前進したのです。勿論、神は、アブラハムが息子を屠ろうとしたその瞬間に助けてくださいました。

ヤコブ書では、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょう。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(2:14)と告げています。アブラハムの信仰に倣い、今、一歩前進することができるよう、共に祈りましょう。