2023年6月11日の礼拝宣教から

「回復の希望」         イザヤ書35章1~4節

津村春英牧師

 「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。」(35:1)。これは命令というより、回復の実現を意味しています。バビロン捕囚の古代イスラエルの民に与えられたみことばです。マイナスと思える状況にあって希望を持ち続けることのできる秘訣、それは信仰です。私たちの教会はどうでしょうか。奏楽者がいない、あれもない、これもない、そのような否定的なことば、そんなことは誰にでも言えます。先週の120周年記念の島田巌牧師の宣教から何を学びましたか。カナの婚礼の葡萄酒の奇跡は、水を汲んだ召し使いたちから始まったのです。町を出て、郊外の井戸まで行き、水を汲んで、何度も何度も往復した召し使いたちの働きがなければ、主イエスによる奇跡は起こらなかったのです。これはただの水ではないか。こんな仕事は何になるのか。徒労だ、なんて思ったのでしょうか。空になった甕(かめ:コロナ禍による教会の空席状況)には満たされる希望があります。ただし、郊外の井戸から水を汲んで、町の中まで運ぶ召し使いたちが必要でした。

 さらに、「弱った手に力を込め/よろめく膝を強くし、…雄々しくあれ、恐れるな」(同3, 4)とありますが、これは私たちの信仰のことです。必ず主が花を咲かせてくださるとの信仰をもって、今、与えられている自らの務めにひたすら励みましょう。

2023年6月4日の礼拝宣教から

「水よ、ぶどう酒よ、ああ聖霊よ」  ヨハネの手紙一2章7~11節 

島田 巖牧師

 イエス様と弟子たちがカナで婚礼に参加していた時、ぶどう酒が足りなくなるという予期せぬ状況が起こりました。そこでイエス様は「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。水がめに水を入れるというのは、大変な作業です。疑いもあったかもしれません。しかし、召し使いたちがそのようにした時に、水はぶどう酒に変わったのです。

 当教会の創立者である河邊貞吉先生は、伝道も同じだと言われました。私たち人間は、水をかめに入れることはできます。例えば、祈りを込めてトラクトを配る。そのように水を満たすのです。その後のことは神様が成してくださいます。また、建物としての教会は、かめにすぎないものです。その中に集まる人間が何をしようとしているか、それこそが「教会」を成立させるのです。

 イエス様は、人間が遭遇することに関心を持ち、責任を引き受け、希望を与えてくださるお方です。イエス様は、何かを変える力を持っておられるのです。

だから何とかして“聖霊に満たされ”てください。それも100%です。そうすれば、歌を歌うように語り合うことができる。人間的なぬくもりが生まれる。そこに人が集まって来るのです。「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ5:18-19)。                                                        (文責:川﨑真奈)

2023年5月28日の礼拝宣教から

「聖霊を受ける」  使徒言行録2章37~42節

津村春英牧師

  キリスト教会では、イースターから数えて50日目(ギリシア語でペンテコステ)を聖霊降臨日として記念します。それは昇天された主イエスのお約束の成就でした。その約束を待ち望んで祈っていた弟子たちに三位一体の神の霊、聖霊が降ったのです。聖霊を受け、聖霊に満たされたペトロは人々に向かって言いました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(2:38,39)と。


 私たちは、主イエス・キリストを救い主と信じて、邪悪な時代(不正を好む曲がった時代)から救い出されなければなりません。その人は聖霊を受けるとあります。パウロも言っています。「この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:5聖書協会共同訳)。聖霊に満たされるならば、苦難の中にあっても神の愛を十分に理解することができます。聖霊降臨を感謝し、弟子たちのように、私たちも、聖書のみことばを宣べ伝えることに励みましょう。

2023年5月21日の礼拝宣教から

「古くて新しい戒め」  ヨハネの手紙一2章7~11節

津村春英牧師

 イエス・キリストの愛をもって「互いに愛し合うこと」、これは古くて新しい戒めです。それは、旧約聖書の「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ19:18)にあり、主イエスのことばの、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34; 15:12)などにあります。

 この手紙の教会は、「彼らはわたしたちから去って行きました」(2:18)ということばが示唆するように、異端思想に走った人々が教会から出て行ったという危機的な状況にあったと考えられます。そこで、この手紙の著者は、何よりも兄弟愛を奨めているのです。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。」(手紙一2:10)とあります。「つまずき」は人に罪を犯させるものの意で、英語のスキャンダルscandalの語源です。

 原因は違いますが、コロナ禍がきっかけで、なかなか礼拝出席者が戻らない当教会は、何をしなければならないのでしょうか……。ヨハネ福音書には、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(13:3)とあります。創立120周年を迎える私たちは、改めて、古くて新しい戒め、「互いに愛し合うこと」をもって、リバイバル元年となるよう励みたいと思います。

2023年5月14日の礼拝宣教から

「あの方が歩まれたように」  ヨハネの手紙一2章1~6節

津村春英牧師

 今日は母の日です。亡くして初めて分かることがあります。理解していなかったことに気付きます。母への感謝と共に、親孝行できなかったことを悔いています。マタイ福音書25章14節以降の「タラントンのたとえ」で、1タラントンの活用を期待され、主人から1タラントンを預けられた人の悲劇は、主人の愛を理解しておらず、しかもその結果を主人のせいにしたことでした。

 では、私たちは神をどのように理解していますか。ヨハネの手紙一2章1-5節には、主イエスが私たちのためにヒラスモス(罪の贖いのいけにえ)となって私たちの罪を赦してくださり、また、最後の審判の時のパラクレートス(弁護者)としていてくださると書かれてあります。そして、神の戒め(みことば)を守るなら、神が愛であるということがわかると書かれています。さらに、「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」(2:6)と奨められています。主イエスはどのように歩まれましたか。ヨハネ福音書によると、父なる神をひたすら愛し、多くの様々な人を救われました。そして何よりも、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われ、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきである」と言われました(13:14)。「あの方が歩まれたように」、これが、私たちの目指す生き方です。