2023年3月5日の礼拝宣教から

「いちじくの木のたとえ」 ルカによる福音書13章1-9節

津村春英牧師

卒業式のシーズンです。教師は卒業生に対して何を求め期待するのでしょうか。主イエスは弟子たちはじめ、聴衆に向かって繰り返し、悔い改めを求めました。ルカの福音書にはそれが顕著に表されています。悔い改めなければ恐ろしい結果になると迫りました。それは紀元70年のエルサレム崩壊を暗示していました。主イエスは、それをいちじくの木のたとえでもって説明されました。3年たっても実を結ばないいちじくの木に対して、切ってしまえとオーナーから命じられた園の管理人は、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」(13:5)と答えました。管理人は主イエスであって、主は、なんと十字架の死をもって、信じる者を救い、人生で実を結ぶようにしてくださったのです。

悔い改める必要なんかない、などという人はいませんか。大変残念ですが、その人は神の恵みからもれていると言わざるを得ません。悔い改めることは、ルカ15章の三つのたとえにあるように、まず、自分が本来あるところから失われていることに気づくこと、しかし、そんな自分を知っていて待っていてくださる方がいることに気づくこと、そして、そのお方のもとに向かうことです。悔い改めは前向きです。前進のための希望です。

2023年2月26日の礼拝宣教から

「私の家は神と共にある」 サムエル記下23章1-7節

津村春英牧師

梅の香りが心地よい季節です。実梅は何本か違う種類の梅を傍に植えた方が、実が付きやすいそうです。色々な人の集うキリストの教会の私たちも、そのように豊かにされたいものです。

イスラエルの二代目の王、ダビデの一生は波乱万丈でした。エッサイの末子、羊飼いの一少年が、イスラエルの王に上り詰めるまで、数々の試練を経験しました。王になってからも、自らの至らなさゆえに、深い悔い改めを迫られることもあり、息子たちを失うというつらい憂き目も経験しました。そのようなダビデの生涯を締めくくる言葉が、「神を畏れて治める者は…雨の後、地に若草を芽生えさせる日の光。私の家は神と共にある。」(聖書協会共同訳23:3—5a)でした。ここでは、「私」ではなく、「私の家」が重要です。神に従い、神を畏れることの重要性のメッセージを息子ソロモンはじめ子孫に送っているのです。それはモーセの後継者、ヨシュアの最後の言葉、「私と私の家は主に仕える。」(聖書協会共同訳・ヨシュア記24:15)と響き合います。

私たちも、「神と共に」ありますか。十字架の死によって神への道を開いてくださった主イエスによって、「私の家は神と共にある」ことを求めてまいりましょう!

2023年2月19日の礼拝宣教から

「愛の内にとどまる人」 ヨハネの手紙一4章11-16節

津村春英牧師

昔、子どもたちとテレビドラマ「大草原の小さな家」をシリーズで見ました。古き良きアメリカの開拓時代、一家が様々な困難を乗り越える姿を通して、家族愛や人間愛の尊さを描いたものです。日本でも何度も再放送されるのは、いつの世も、親が子どもを思う愛、子どもが親を思う愛、夫婦の愛、家族の愛、人間相互の愛が大切だからでしょう。

ヨハネの福音書の背景には会堂追放(9:22; 12:42; 16:2)という試練があり、互いに愛し合うことが主イエスの弟子に求められました(13:35)。ヨハネの手紙一でも、教会の仲間が教会から去って行く(2:19)という危機的な状況にあり、互いに愛し合うことが求められました(3:11, 23; 4:7, 11)。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(4:16)とありますが、この「とどまる」は、原語ギリシア語ではメノー(英語abide)で、「存続する」の意味合いがあり、神の愛の内にとどまる人は、その神の愛の実践をなおざりにはできません。コロナ禍の影響もあって礼拝出席者が減少している私たちの教会も、神の愛が全うされる(4:12)ために、主イエスの弟子である私たちには、互いに愛し合うことが求められているのではないでしょうか。

2023年2月12日の礼拝宣教から      

「主は人の心を知っておられる」ヨハネ福音書2章23-25節

津村春英牧師

律法に忠実に生きようとするファリサイ派でユダヤ議会の議員という地位にあるニコデモという人が、夜(人目を避けてか)、主イエスに会いに来ました。主は彼に、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3:3)と言われました。下線部は、もう一度、上から(主の霊によって)という意味もあり、信じること(2:23)だけでなく、「霊から生まれる」(3:8)ことの重要性を説かれたのです。確かにヨハネ福音書では、主が復活後に弟子たちに対して、「聖霊を受けなさい」(20:22)と強調されています。キリスト者は洗礼を受けた時に聖霊にあずかりますが(ヘブライ6:4)、聖霊に満たされる必要があります。

先週発生したトルコ・シリア大地震で、耐震性能の低い建物が次々と倒壊し、多くの犠牲者が出ています。人生にも、ある程度予測できることと、全く予測できないことがあります。その危機に対して私たちは大丈夫でしょうか。なぜ、こんなことになるのか、なったのかと嘆くのでなく、主の霊、聖霊に満たされることにより、物事の本質がよく見え、平安が与えられるのです。主は私たちの心を知ってくださっているのですから(2:24, 25、ニコデモ、サマリアの女性、ベトザタの池の病人など)。れが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(8:35)と問いかけます。現代的に言うなら、「病気か、老いか」も追加されることでしょう。なお、下線部の原語は「狭い」を意味し、精神的な行き詰まりが想像できます。これは架空の話などではなく、パウロの実体験でもあります(コリント二11:23-27)。「しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります…高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」(8:37-39・聖書協会共同訳)と断言しています。

たとい自分がボロボロの状態にあると思っても、十字架と復活と執成しをもって愛してくださる主イエス・キリストによって、私たちは勝利者なのです。どんなものも、神の愛から私たちを引き離すことなどできないのです!

「勝利者はいつでも 傷つき悩みながら それでも前に向かう」(♪小坂忠「勝利者」)

2023年2月5日の礼拝宣教から         

「神の愛から引き離すことはできない」ローマ信徒への手紙8章31-39節

津村春英牧師

紀元一世紀の大都市ローマにいるキリスト者も例にもれず、信仰の戦いの中にありました。パウロは彼らに、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(8:35)と問いかけます。現代的に言うなら、「病気か、老いか」も追加されることでしょう。なお、下線部の原語は「狭い」を意味し、精神的な行き詰まりが想像できます。これは架空の話などではなく、パウロの実体験でもあります(コリント二11:23-27)。「しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります…高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」(8:37-39・聖書協会共同訳)と断言しています。

たとい自分がボロボロの状態にあると思っても、十字架と復活と執成しをもって愛してくださる主イエス・キリストによって、私たちは勝利者なのです。どんなものも、神の愛から私たちを引き離すことなどできないのです!

「勝利者はいつでも 傷つき悩みながら それでも前に向かう」(♪小坂忠「勝利者」)