2023年7月9日の礼拝宣教から 

「御子を告白する」 ヨハネの手紙一2章18~23節

津村春英牧師

 先日、同郷で、和歌山高専の2年後輩の者が、私の近況を知って、懐かしく思い、遠くから長い電話をくれました。彼は、1年前の奈良西大寺の銃撃事件で取りざたされた宗教団体で50年間も活躍しているということでした。久しぶりに電話をくれた彼に、「あなたの信仰は異端だ」とは言えませんでした。彼は私に、「伝道に命を懸けている」と言いました。私たちはどうでしょうか。

 「御子を否定する者は皆、御父を持たず、御子を告白する者は、御父を持っているのです。」(2:23聖書協会共同訳)とありますが、「否定する者」とは、御子イエス・キリストがこの世に人として来られた、つまり「受肉」されたということを認めず、否定する者です。これが著者の教会における異端思想でした。他方、「告白する者」とは御子の「受肉」を信じ受け入れ、公言する者です。そして、「告白する者」は「御父を持っている」、つまりヘブライ語的に解釈すると、「御父の内にいる」ということです。御父から遣わされた御子イエス・キリストは、神であられたのにこの地上に肉体をもって住まわれました。罪以外は私たちと変わらない生活をされ、同じような苦しみを経験され、そして、十字架を耐え忍んで私たちの罪を赦してくださいました。心から感謝します。私たちは、しっかりとこの信仰を告白し続けることができるよう心したいものです。そして、御父である神様の内におられるようにしてくださいと祈りましょう。

2023年7月2日の礼拝宣教から

「神の子どもとして生きる」 ローマの信徒への手紙8章14~17節

川﨑真奈伝道師

 皆さんは日々の信仰生活をどのようにお過ごしでしょうか?奴隷は、主人の顔色をうかがって、「~しなければ」と義務感から行動します。一方で、愛なる親のもとにいる子どもは、安息と喜びがあり、「~したい」と自発的に行動します。私たちと神様との関係は、奴隷と子ども、このどちらに近いでしょうか?

 聖書は、私たちは神の子どもとして、「アッバ、父よ」と親しく呼ぶことができる、それを内なる御霊が証ししてくださるといいます。放蕩息子の父、あの姿こそ天のお父さんの姿です。与え、忍耐し、赦す愛。神の子である私たちは、いつもこのお父さんの愛のもとに帰ることができるのです。

 神の子どもとして生きるとは、日々この神様との愛の関係に生きることです。神様の愛を感謝して受け取り、このお方を愛する、人格的な交わりの歩みです。イエス・キリストを信じて救われた私たちは、天国行きの切符をもらって終わり、ではありません。どうぞ、一日の始まりに「主よ、今日もあなたの子どもとされていることを感謝します。あなたを愛します。」と祈ってみてください。主ご自身が、私たちの信仰生活を豊かに祝福したいと願ってくださっています。私たちは、日々“神の子アイデンティティ”に立って、天のお父さんとの関係に安息し、喜びと楽しみをもって生きようではありませんか!

2023年6月25日の礼拝宣教から

「御父の愛」 ヨハネの手紙一2章15~17節(聖書協会共同訳)

津村春英牧師

 「世も世にあるものも、愛してはなりません。世を愛する人がいれば、御父の愛はその人の内にありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、見栄を張った生活は、御父から出たものではなく、世から出たものだからです。」(聖書協会共同訳2:15, 16)。下線部は、新しい翻訳の聖書協会共同訳(2018)と新改訳2017では、いずれも旧版の「御父への愛」「御父を愛する愛」から「御父の愛」に訳し変えています。それは、後に続く「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」(3:17)や、「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(4:12)とも符合します。

 「世」とは、ヨハネ文書では、神の愛の対象でありながら、その神の愛を受け入れない存在です。「肉の欲」は、悪徳、淫行へ導きます。「目の欲」は所有欲、強欲。「見栄を張った生活」は生活のおごりであり、神から求められている愛の実践とは真逆の生き方です。私たちには御父の愛が必要です。神の愛により、試練の中にあっても希望を持ち続けることができるのです(ローマ5:3-5)。私たちの心が御父の愛で満たされるよう、自らを見つめ直しましょう。

2023年6月18日の礼拝宣教から

「神の言葉がとどまると…」   ヨハネの手紙一2章12~14節

津村春英牧師

 米カリフォルニア大学のR.A.エモンズ他の”Gratitude and Subjective Well-Being in DailyLife,”2003.という論文には、「感謝すること」が「幸福感」をもたらすという実験結果が紹介されています。あなたは日々感謝していますか。そして幸福だと思いますか。聖書には「どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケ一5:16-18)とあります。

 ヨハネの手紙一には、「若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが強く、/神の言葉があなたがたの内にいつもあり、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。」(2:14c)とあります。この「若者」は年齢でなく信仰の若さです。「悪しき者」(ヨハネ文書では、この世の君、悪魔、サタン)との戦いに勝利する秘訣は、体の強さ、体力ではありません。「神の言葉があなたがたの内にとどまること」だというのです。「とどまる」はヨハネ文書に特徴的で、ブドウの枝(つる)が木に「つながり」、実を結ぶがごとくです。神の言葉によって、その信仰の強さゆえに、年老いていても、「若者」と呼ばれるのです。そして、「神の言葉」とは、神がこの世に遣わしてくださった主イエス・キリストによる罪の贖いの言葉です。罪赦され、救われていることに、日々感謝し、今、与えられているその場所で、今週も主の僕として励みましょう!

2023年6月11日の礼拝宣教から

「回復の希望」         イザヤ書35章1~4節

津村春英牧師

 「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。」(35:1)。これは命令というより、回復の実現を意味しています。バビロン捕囚の古代イスラエルの民に与えられたみことばです。マイナスと思える状況にあって希望を持ち続けることのできる秘訣、それは信仰です。私たちの教会はどうでしょうか。奏楽者がいない、あれもない、これもない、そのような否定的なことば、そんなことは誰にでも言えます。先週の120周年記念の島田巌牧師の宣教から何を学びましたか。カナの婚礼の葡萄酒の奇跡は、水を汲んだ召し使いたちから始まったのです。町を出て、郊外の井戸まで行き、水を汲んで、何度も何度も往復した召し使いたちの働きがなければ、主イエスによる奇跡は起こらなかったのです。これはただの水ではないか。こんな仕事は何になるのか。徒労だ、なんて思ったのでしょうか。空になった甕(かめ:コロナ禍による教会の空席状況)には満たされる希望があります。ただし、郊外の井戸から水を汲んで、町の中まで運ぶ召し使いたちが必要でした。

 さらに、「弱った手に力を込め/よろめく膝を強くし、…雄々しくあれ、恐れるな」(同3, 4)とありますが、これは私たちの信仰のことです。必ず主が花を咲かせてくださるとの信仰をもって、今、与えられている自らの務めにひたすら励みましょう。