2024年3月24日の礼拝宣教から

「キリストの愛を知る」  エフェソ3章14-19節

津村春英牧師

 植物は同じ仲間同志で会話をしているそうです。木が虫に食べられ、腐り始めると、ある物質を放出して危険を隣の木に知らせ、それを受けた隣の木は、虫が嫌がるものを表面に造り出すことによって、虫はやってこないそうです。

 今日から受難週に入ります。ゴルゴダの丘で一体、何があったのでしょうか。私たちをむしばむ罪に勝利したゴルゴダの丘の十字架から発せられるメッセージを聞き取り、私たちはサタンに対してバリヤーを造っているでしょうか。

 エフェソ書3章14-19節は、ギリシア語原文ではたった一つの長い文で、二つの「とりなしの祈り」で構成されています。まず、16-17節に、父なる神がキリスト者の「内なる人」を強め、キリストを心の内に住まわせ、その愛に根差し、愛の内に自己が確立されるようにと祈っています。次に18-19節で、「キリストの愛」(原語は18節にはなく、19節にのみ出てくる)の広さ、長さ、高さ、深さをよく理解し、この人知を超えた愛を知って、神の満ち溢れる豊かさに満たされるようにと祈っています。

 「キリストの愛」が現わされたゴルゴダの十字架からメッセージが聞こえますか。信仰の耳をもって聞くのです。信仰の目をもって十字架を見るのです。祈りましょう!

2024年3月17日の礼拝宣教から

「恵みの御言葉」  ルカによる福音書4章14-30節

津村春英牧師

 主イエスはヨハネが捕らえられた後(cf.マルコ1:14)、ガリラヤに帰られ、諸会堂で教えて好評を博し、故郷のナザレに来て会堂に入られました。そこで預言者イザヤの巻物(ビブリオン:バイブルの語源)の、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(4:18-19)を読み、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(同21)と話されました。人々は、イエスを賞賛し、その恵みの御言葉に驚きます。ただし、「驚く」の原語には感嘆と反対の両方の意味があります。上記の言葉に関連して、預言者エリヤが飢饉の後に遣わされた先はユダヤ人ではなく異邦人のやもめであり、また、エリシャもツァラアトを患う異邦の将軍ナアマンに遣わされたとイエスが話されると、聞いた人々は怒り心頭に発し、イエスを崖から突き落とそうとしました。つまり、彼らが聞いた言葉は彼らにとっては恵みの御言葉にならなかったのです。

 では、私たちにとってはどうですか。どんな試練の中にあっても、神の愛が注がれていることを信じるなら、それは恵みの御言葉になるのです。

2024年3月10日の礼拝宣教から

「悪魔からの試み」  ルカ福音書4章1-13節

津村春英牧師

 大学入学試験の合否発表が出始めています。当事者にとっては一大事です。果たして一生のうち何回、試験を受けるのでしょうか。学校に入るための入学試験、会社に入るための就職試験、それに…最後は認知症の試験でしょうか。

 主イエスが公生涯に入られる時にも悪魔からの試験がありました。それは第一に、荒れ野に転がる石ころをパンにかえよという、肉の欲に対する試みでした。第二に、悪魔は高いところから世界を見せ、悪魔を礼拝するなら一切を与えるという、権力欲、名誉欲、所有欲などに対する試みでした。いずれも、主は申命記の御言葉をもって応じられました。第三の試みは、神殿の尖塔から飛び降りよという、神の子という肩書や能力に対する試みでした。これは悪魔自身が詩編の御言葉を引用しましたが、主も、申命記の御言葉をもってこれに応じられ、見事にこれらすべての試みに勝利されたのです。

 私たちも、人生の荒れ野で試練を経験します。そこで神を見失うかもしれません。悪魔の囁きがあるかもしれません。しかし、そこに、主イエスが共にいてくださることを信じましょう。そして、御言葉をもって、悪魔に勝利しましょう! 「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことが出来ます」(ヤコブ1:21)。

2024年3月3日先週の礼拝宣教から      

「イエスの系図」  ルカ福音書3章23-38節

津村春英牧師

 NHKの番組に、有名人のルーツを調査し取材した「ファミリーヒストリ―」というのがあります。その人の現在の姿は先祖に起因するのではないかということを物語る番組です。他方、浄土真宗には位牌に替わる過去帳というものがあり、これによって、あるところまでの先祖に遡ることができます。

 新約聖書のマタイの福音書には、アブラハムからイエスに至る系図があり、ルカの福音書には、イエスから始まりアダムそして神に至る系図があります。前者はユダヤ人イエスの系図であり、後者は神の子イエスの系図であるとの解釈がなされています。ところが、マタイ版では、イエスの父ヨセフの父がヤコブであるのに対して、ルカ版では、イエスはヨセフの子と思われる(処女降誕を暗示)が、ヨセフはエリの子とあり、両者は違っています。さらに、ルカ版にはイエスからアダムまで、77名の人物があげられていますが、必ずしも長男とは限らず、おまけにその約半数の名が旧約聖書には書かれていません。この系図は一体何を伝えようとしているのか、ルカは何ら説明をしていません。

 さて、あなたの系図、私の系図も、別のラインを通ってアダムに至ることになるのですね。一人の人が救われ、その家族が救われていくことが期待されていますが(使徒16:31)、そのために、私たちは何をなすべきでしょうか。

2024年1月28日の月例召天者記念会の奨励から      

「深紅のよりひもが希望」 ヨシュア記2章18節

津村春英牧師

 私たちの教会では、私が牧師として就任以来、37年間にわたって、その月に召された方々の月例召天者記念会を、ご遺族を招き、教会主催で定期的に行っています。故人の思い出を語り、分かち合いながら、自らの人生を顧みる、良きときであり、歴とした伝道プログラムなのです。

 古代イスラエルの民が40年間の荒野彷徨を終えて、約束の地カナンを目前にしました。ヨルダン川を渡っての最初の難関が、城壁の町エリコでした。そこで密かに二人の斥候を遣わしますが、彼らをかくまった宿の女主人ラハブは、イスラエルが進攻してくるときに、彼女の一族郎党の救いの確約を求めました。そして、「我々がこの地に攻め入るとき、この深紅のよりひもを、我々をつり降ろした窓に結び付けておきなさい。」(ヨシュア記2:18、聖書協会共同訳)との言葉をその斥候から引き出しました。こうして、窓に結んだ「深紅のよりひも」ティクバー(ヘブライ語)が救いのしるしとなったのです。ティクバーにはrope, expectation, hopeの意味があります(ランデルマン真樹『ヘブライの宝もの』2021, pp.243-244.)。

 先に召されたお母さん、お父さん、おばあさん、おじいさんたちが、結び付けてくれた「深紅のよりひも」が、希望であり、救いなのです。