2024年4月28日の礼拝宣教から

「回心」   ルカ福音書5章27-39節

津村春英牧師

 「回心」という言葉は、conversionの訳語で、『広辞苑』にキリスト教の用語として収録されています。しかし、外典のバルク書にある程度で、聖書正典には訳語として出てこないので、案外、クリスチャンには知られていないのではないかと思います。「回心」という用語そのものは、波多野精一『基督教の起源』(1908)や石原謙『宗教哲学』(1916)に遡るようです。

 改心でなく回心は、180度の心の転換を意味し、単なる頭のレベルではなく、行動を伴った言葉なのです。それは、徴税人のレビが、「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28)、そのごとくです。また、主イエスの新しい教えと働きを、バプテスマのヨハネの運動や旧来のファリサイ派の人々の律法的な生き方にあてはめることはできません。勢いのある新しいぶどう酒が古い革袋をつき破ってしまうように、どちらも無駄になります。

 主イエスの語る新しい生き方を新しい心で受け入れてこそ、180度の回転、回心ができるのです。ときに信仰に躓きを覚えるのは、その回転が足りないからではないでしょうか。私たちは、みことばを新しい心で受け止めていますか。聞いていますか。行っていますか。回転不足ではないですか。「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」(38)のです。

2024年4月21日の礼拝宣教から

「罪の赦し」 ルカによる福音書 5章12-26節

津村春英牧師

 新型コロナウイルス感染症は発生から4年が経過してもまだ収束に至っていないという考えの人が多いようです。一時は隔離という手段が取られました。旧約・新約聖書の時代にはヘブライ語でツァラアト、ギリシア語でレプラと呼ばれた病がありました。詳細はレビ記13章に記されていますが、地方祭司の「清め」の判定が出るまでは、隔離され、身を隠していなければなりませんでした。イエスがある町におられたとき、この病の人が、人目をはばからず進み出て、何としても治りたいとイエスに懇願しました。するとイエスはその人に触れ、「清くなれ」と言われると、すぐに病は彼から去ったとあります。それから元のコミュニティに戻れるように、祭司に身体を見せるようお命じになりました。

 身体が麻痺した人が、友らに寝台に載せられ、イエスのところに連れてこられましたが、群衆に阻まれ、中に入ることが出来なかったので、彼らは屋根をはがし寝床のままつり降ろしました。イエスは彼らの信仰を見てその人に、「あなたの罪は赦された」(20)と宣言されました。病はすべて罪が原因とは言えませんが、彼は癒され、立ち上がり、寝床を取り上げ、神を賛美しながら家に戻って行きました。私たちも礼拝の中で、主イエスの十字架による罪の赦しと癒しを得て、主を賛美しつつ、それぞれのコミュニティに戻って行きましょう!

2024年4月14日の礼拝宣教から

「神の言葉を聞く」 ルカによる福音書 5章1-11節

津村春英牧師

 主イエスはシモンの舟に乗り込み、少し漕ぎ出させ、岸にいる群衆に向かって話し始められた。話し終えると、シモンに、沖に漕ぎ出し、網を降ろして漁をするよう命じました。実は、彼らは一晩中、漁をしたが何も捕れず、疲労困憊でした。しかも、時は漁にふさわしくない日中でした。この最悪と思える条件下でシモンが、イエスの言葉を聞いて(8節「私は罪人です」から察するとネガティヴかもしれないが)、行動に移すと(cf.6:47)、おびただしい数の魚が網にかかり、岸にいる仲間に加勢を頼まねばならないほどでした。「仲間」は7節メトコス・一緒に働く人、10節コイノーノス・共有者の訳ですが、大漁の収穫は仲間との共同作業の結果であったことも見落としてはなりません。シモンは、友と文字通り、恵みを共有して、「あなたは、人間を漁(すなど)るようになる」とのイエスの言葉を聞き、そこから再出発するのです。

 JAXA宇宙飛行士候補者の米田あゆさんは、母校の東大入学式でSteve Jobs のConnecting the dotsを引用し、新入生一人ひとりは一点であるが、いろいろな点と結び合って繋がることによって新たな価値を生み出すと語っておられた。キリスト者も同様です。あなたも一点のままで終わってはなりません。御言葉を聞いて、ネットワークを形成し、広がっていくことが期待されているのです。

2024年4月7日の礼拝宣教から 

「悪霊との戦い」 ルカによる福音書 4章31-44節

津村春英牧師

 悪霊は旧約聖書より新約聖書の方に多く見られます。また、悪霊と悪魔の区別は明確ではなく、同一と考えられます。医学が未発達のイエスの時代に、人々は、多くの病気は悪霊の仕業と考えました。しかし、現代社会に生きる多くの人は、「魔がさした」などという言葉を使いつつも、悪霊の存在を信じません。

 イエスが、ガリラヤ湖畔のカファルナウムで安息日に会堂に入られると、汚れた悪霊にとりつかれた男に出会い、「黙れ、この人から出て行け」と言われると、悪霊はその人から出て行きました。さらに、高熱で苦しんでいたシモンの姑に対し、イエスが熱を叱ると、熱は去ったとあります。まるで何かが入っていたかのようです。またいろいろな病気で苦しむ人に、イエスが手を置いて癒されると、悪霊が「お前は神の子だ」と言いながら出て行ったとあります。すべての病気の原因が、悪霊だとは言えませんが、現代医学ではどうしても説明がつかない病もあります。

 悪霊が、私たちに向かって、私たちの心の弱さ、体の弱さ、経済的な問題などをもって、「お前はダメな子だ」と私たちを責めることがあるかもしれません。そんな時には、み言葉の剣によって身を守るように勧められています(エフェソ6:13-17)。悪霊に負けてはなりません。

2024年3月31日の礼拝宣教から

「死は勝利にのみ込まれた」 コリント一15章50-58節

津村春英牧師

 違法賭博疑惑で、アメリカ大リーグに激震が走りました。「真実」の早期解明が求められています。国内では、自民党派閥の政治資金パーティー裏金事件を巡り、野党は追及の手を緩めず、「真実」を引き出そうとしています。

 さて今日は、主イエス・キリストの復活を祝うイースターです。主の復活は「真実」なのか。マタイ福音書28章には、主の復活直後に、祭司長たちは賄賂を使って兵士たちに嘘の証言をさせているシーンが見られます。しかし、パウロは言います。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(コリント一15:17)と。そして、「死は勝利にのみ込まれた、…わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(同54-57)と続けています。こうして、「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(同58)と励ましています。 

 罪から来る死(ローマ6:23)は、私たちの最強にして最後の敵であるが、主の復活による勝利にのみ込まれたというのです。心から感謝し、将来を憂えることなく、それぞれ与えられている主の業に励みましょう!