2023年10月8日の礼拝宣教から

「御心に従って願う」 ヨハネの手紙一5章13-17節

津村春英牧師

 第二次世界大戦ノルマンディ上陸作戦を前にして、指揮官モンゴメリーは祈ったそうです。「われわれは、祈ろう。個々の戦闘にあたっては、勇ましい主が、われわれとともにあるように。また、苦戦のときにも、主の格別なる節理が、われわれに味方するように」(ピーター・C.クレイギー『聖書と戦争―旧約聖書における戦争の問題』村田充八訳、すぐ書房、1990,2001改)と。果たしてその結果は…。我田引水の祈りですが、人は大いなる神に願い求めます。

 「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(5:14)とあります。しかし、何でも祈ればかなえられるというのではありません。何でも聞き入れられるなら、神は自分の召し使いになり下がります。そうではありません。「神の御心に適う」祈りが、聞き入れられるのです。それは、「死に至らない罪」(レビ記4:2; 民数記15:27など参照)を犯している者にも命が与えられるほどだというのです(5:16, 17)。ヨハネ福音書に、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(15:7)とあります。このようにして神の御心を知り、願うのです。

2023年10月1日の礼拝宣教から

「神の証し」 ヨハネの手紙一5章6-12節

津村春英牧師

 ギリシア語マルチュリアはevidence, proof, testimonyなどと英訳されますが、次の神の「証し」はtestimony証言という意味です。ヨハネの手紙一の冒頭で、「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」(1:2)で始まりましたが、「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。」(5:9)「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」(5:11)と増幅されています。この神の証しは御子についての証言であり、命(永遠の命)である御子を世に遣わし、御子を信じる者にその永遠の命を与えるという証言です。

 生者必滅で、この地上の命はすべて例外なく滅びますが、その後、神の御前で裁きを受けると聖書にあります(ヘブライ9:27)。しかし、御子イエス・キリストを自らの救い主と信じ、罪ゆるされている者には、永遠の命が与えられているので、永遠の死を宣告されることはないのです。これは未来だけの話ではなく、地上で永遠の命に生きると表現されるのです。厳しい現実の中にあっても、神の証言に応え、永遠の命に生きる証言者として歩みたいものです。

2023年9月24日の礼拝宣教から

「世に勝つ者」 ヨハネの手紙一5章1~5節 

津村春英牧師

 通天閣が全面的にネオンからLEDに変わりました。かつて通天閣を見上げた将棋士を歌った「王将」に、♪明日は東京に出てゆくからは、なにがなんでも勝たねばならぬ♪とあります。将棋に引き分けはありません。人生そのものも戦いです。しかし、聖書には、「人」は弱くてもろい、土の器であると書かれています(コリント二4:7など)。では、どのようにして、この戦いに勝利するのでしょうか。

 「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」(ヨハネの手紙一5:4)とあります。ここでいう「世」とは、神の愛を受ける対象でありながら、神に背を向けている世界を指します。

 「神から生まれた人」とは、主イエス・キリストを自分の救い主と信じ受け入れ、生まれ変わった人です(ヨハネ福音書3章に出てくるニコデモのように)。

 主は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。…わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28-29)と言われました。使徒パウロも、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:13)と書いています。このように、信仰によって世に勝つのです。

2023年9月17日の礼拝宣教から

「愛には恐れがない」 ヨハネの手紙一4章16b~21節

津村春英牧師

 今年のプロ野球セントラルリーグ優勝チームの監督の口癖は、「普通にやるだけ」だそうです。ところが私たちには、日常、「恐れ」があります。昔のことばに、地震、雷、火事、親父(強風説も)とあるように、恐れるものが存在します。昨今は線状降水帯による大雨や洪水もそうでしょうか。

 今日の聖書の箇所には、「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(4:17, 18)とあります。裁きの日は厳粛ですが、主イエスは、敵意や危険に囲まれながらも、父なる神との愛の交流により、神を信頼して歩まれました。そのように、イエス・キリストがなしてくださった愛が自分たちの内に全うされているなら、将来への恐れはないというのです。

 「世界が明日滅びることが分かっていたとしても、私は今日リンゴの木を植えるだろう」はマルティン・ルターのものとされますが、どんなことがあっても、「普通にやる」ということです。確信があるからです。恐れがないからです。神の愛の内にあるなら恐れはありません。希望を持って、進みましょう。

2023年9月10日の礼拝宣教から

「神の愛の内にとどまる」 ヨハネの手紙一4章11~16a節

津村春英牧師

 先週、二つの大きな謝罪会見がありました。ひとつは、ある芸能プロダクション創業者による性加害に関する会社側からの会見、もうひとつは、事故車の修理時にさらに傷を追加して保険金を増額し不正請求した業者と結託した保険会社の会見でした。聖書には、「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブの手紙1:15)とあります。これは他人事ではありません。すべての人に適用されることばです。今、私たちが読んでいるヨハネの手紙一には、「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(ヨハネの手紙一1:7-9)とあります。

 人は自分の罪を告白し、主イエス・キリストの十字架によって、罪を赦されなければなりません。生まれ変わらなければなりません。そして、罪に陥らないように、神の愛(神が人類の罪の贖いとして御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった)の内にとどまり続けるよう勧められています。ここに救いがあり、希望があるのです。