2023年5月14日の礼拝宣教から

「あの方が歩まれたように」  ヨハネの手紙一2章1~6節

津村春英牧師

 今日は母の日です。亡くして初めて分かることがあります。理解していなかったことに気付きます。母への感謝と共に、親孝行できなかったことを悔いています。マタイ福音書25章14節以降の「タラントンのたとえ」で、1タラントンの活用を期待され、主人から1タラントンを預けられた人の悲劇は、主人の愛を理解しておらず、しかもその結果を主人のせいにしたことでした。

 では、私たちは神をどのように理解していますか。ヨハネの手紙一2章1-5節には、主イエスが私たちのためにヒラスモス(罪の贖いのいけにえ)となって私たちの罪を赦してくださり、また、最後の審判の時のパラクレートス(弁護者)としていてくださると書かれてあります。そして、神の戒め(みことば)を守るなら、神が愛であるということがわかると書かれています。さらに、「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」(2:6)と奨められています。主イエスはどのように歩まれましたか。ヨハネ福音書によると、父なる神をひたすら愛し、多くの様々な人を救われました。そして何よりも、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われ、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきである」と言われました(13:14)。「あの方が歩まれたように」、これが、私たちの目指す生き方です。

2023年5月7日の礼拝宣教から 

「光と闇」   ヨハネの手紙一1章5~10節 

津村春英牧師

「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(1:5)とありますが、日頃、私たちは「神は光」と実感していますか。今年は、カトリック信者で芥川賞作家の遠藤周作氏の生誕100周年だそうです。その奥様が著した『夫の宿題』(1998)に、「一度も見たことのない主人の表情を見て、ああこの人は長い苦しみを経て、今、光の中に入って行ったんだ」という氏の最期の姿が描写されています。あらためて「神は光」なのだと思わされます。

「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。…自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(同7-9)とありますが、罪とは何でしょうか。マルコ7:21-22やローマ3:23、ガラテヤ5:19-20、ヤコブ4:17などに具体的な罪があげられていますが、「十戒」にその原理原則があると思います。つまり、神を愛すること(第一戒から第四戒)、人を愛すること(第五戒から第十戒)をしないことが「罪」だと思います。罪を悔い改め、清められて、光の中に入れられていることを日々感謝して歩みたいと思います。

2023年4月30日の礼拝宣教から 

「キリストのからだなる教会」 エフェソの信徒への手紙4章11~16節

川﨑真奈伝道師

「教会」とは何でしょうか。パウロは、教会は「キリストのからだ」であると言いました。まず教会は、イエス・キリストを中心とした共同体だということです。教会にこそ、すべてを満たすイエス様が臨在しておられるのです。また教会は、頭なるキリストに向かって成長していく共同体です。

教会は一つのからだであって、一人ひとり「おのおのの部分は分に応じて働く」器官です。誰も役割のないという人はいません。主は、「教会の一部として、もうすでにあなたの分を備えているから、それに応じて働くように」と呼びかけてくださっています。私たちが与えられているものを主の御国の建設のために用いる時に、主は、教会がキリストご自身とさらに深く合わされていく、そのような天の喜びにあずからせてくださいます。

そして、教会は「愛」によって一つとされます。「あらゆる節々が補い合う」とあるように、教会が一致するために、主がご自身の愛をもって教会に交わりを与えてくださっています。イエス様の愛をいただいて、互いを気遣い合う交わりがなされるなら、教会は主のいのちが流れる生きた場となります。

私たちは、分に応じて互いに教会に仕え合い、愛のある交わりの中、共に成長していこうではありませんか。

2023年4月23日の礼拝宣教から 

「私たちの喜びが満ちあふれるために」  ヨハネの手紙一 1章1-4節 

津村春英牧師

 ツツジは、「人が足を止めて見るほど美しい」といわれ、漢字で躑躅と書くそうです。私も立ち止って宣教を再考し、改めてヨハネの手紙一(以後、ヨハネ一)に取り組みます。ヨハネ福音書とヨハネ一とは、語彙や思想などの類似から相関していることが知られますが、前者はパレスチナ・シリア付近で書かれ、後者はエフェソに強い伝承があります。

ヨハネ一は、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」(1:1)で始まります。これは福音書1:1-18に表されている主イエス・キリストのことです。聞く、見る、触れるは遠近法で、著者があたかも復活の目撃者のように書かれています。また、この教会(共同体)は、キリストを否む異端者たちが去って行った(2:19)という危機的状況にありました。だからこそ、「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(1:4)とあるのです。読者を含めたこの「喜び」は決して浅薄なものではなく、苦難の中にあっても奪われない喜びです。それはフィリピ獄中のパウロとシラスの賛美と祈りにも似た、復活の希望と終末論的救いという喜びです。私たちもこの喜びを自分のものとしなければなりません。

2023年4月16日の礼拝宣教から

「あなたがたはキリストの手紙」 コリントの信徒への手紙二3章1-3節

津村春英牧師

最近は電子メールが重宝し、手紙を出すことが少なくなったと思われますが、牧師にはルーティンワークです。手紙は心を伝えます。使徒パウロも多くの手紙を書いたようで、そのうちのいくつかが聖書に残っています。コリントにある教会に、恐らくエルサレム教会からやってきた者たちがパウロの使徒職を求めたようです。真実のキリストを語っているかどうかということです。それに対し、パウロは、「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」(3:2)と書き送りました。次節にも、「あなたがたは、私たちが書いたキリストの手紙」(3:3聖書協会共同訳)であると説明しています。それはパウロたちの奉仕による「キリストの手紙」という意味であり、それを見れば、キリストとはどういうお方であるかがわかるということです。苦難の中にも復活されたキリストの希望があること(1:9,10)を信じて生きるよう、コリントにある教会の兄弟姉妹にも求めています。

私たちキリスト者も「キリストの手紙」なのです。試練の中でも希望を持ち、主から与えられたタラントンに応じて(マタイ25:14-30)、それぞれの生き様を通して、キリストを現わすよう努めてまいりましょう。