2022年9月25日の礼拝宣教から

「神の選び」   サムエル記上16章5-13節

津村春英 牧師

新しく即位されたイギリス国王が母・女王のように多くの人々から尊敬される王であってほしいものです。旧約聖書に登場する初代イスラエル王サウルは、主より人の目を恐れて不信仰に陥り、存命中にもかかわらず、主は預言者サムエルを、新しい王となるべき人物に油を注ぐために、ベツレヘムのエッサイの所に遣わしました。そこで、その七人の息子に会いますが、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(16:7)、つまり、目に見える姿、形ではなく、主は人の心を注意深く調べられると言われたのです。結局、彼らではなく、野で羊の世話をしている末子ダビデを主がお選びになられたのです。やがてダビデは王となり素晴らしい活躍をする一方で、大罪を犯し、一度は悔い改めますが、息子が引き起こした事件の処理のあいまいさゆえに、もう一人の息子に追われ、この二人の息子を失うという憂き目を経験します。

キリスト者も、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(ヨハネ福音書15:16)とあるように、主イエスに選ばれた者ですが、ダビデがそうであったように、選びは永久ではありません。運転免許書の更新のように、実を結ぶために、「悔い改め」という更新が必要ではないでしょうか。

2022年9月18日の礼拝宣教から

「恵みを語り尽くすまで」   詩編71編16-21節

津村 春英 牧師

今日は敬老礼拝をささげています。詩編71篇は、「若き時より」(浅野順一『詩篇』岩波新書),「いや増す讃美」(A.ヴァイザー、ATD)、“Prayer in old age”(A. Cohen, Soncino Press)などと題が付けられています。「わが主よ、私はあなたの力によって進みます。/主よ、ひたすらあなたの正義だけをほめたたえます。」(71:16.共同訳)とありますが、「正義」は新共同訳では、「恵みの御業」と意訳され、それは主の救いと裁きを示し、神と人との関係を表しています。浅野は、「この詩には罪のざんげは語られていない。しかし自己の無力を嘆き、神に助けを呼び求めたこの詩人が神への賛美をしばしば口にしていることは興味深きことである。讃美なき祈願は真の祈願とはいえぬであろう、この詩はそのことを深く教えているように思われる。」(前掲、147頁)と書いています。「数えてみよ主の恵み」(新聖歌172)という歌がありますが、年長者ほど、主の恵みを多く数えることができるのではないでしょうか。

信仰者の最後の目的は何ですか。やがて、自分が安らかに眠ることですか。その前にすることがありませんか。今日のみ言葉、「わたしが老いて白髪になっても/神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を/来るべき世代に語り伝えさせてください。」(同18)、これではないですか。

2022年9月11日の礼拝宣教から         

「罪人の頭(かしら)」   Ⅰテモテ1章12-17節

津村 春英 牧師

先週、英国のエリザベス女王が崩御され、国際社会から追悼の声が相次いでいるようです。そして、王位は継承順第一位のチャールズ3世に引き継がれました。

使徒パウロは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」(1:15)と書きました。つまり、パウロ自身が、罪人の順位では第一位(頭:かしら)だと表明したのです。なぜなら、キリストに出会う前は、神を冒涜する者、迫害者、傲慢な者(共同訳)であったからだと言うのです。しかし、知らずに行ったので、憐れみを受け(同13)、「わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」(同16)と続けています。パウロは自分が、「こんな者でも救われる」という見本(先例)となるために、主キリスト・イエスが、限りない忍耐(寛容:時間をかけるの意)をもって見守ってくださったと書いているのです。パウロが受けた主の憐れみは、私たちにも及んでいるのです。あふれる感謝を主にささげ、私たちも伝道に励みましょう。

2022年9月4日の礼拝宣教から

「永遠の栄光に招かれた者」  ペトロの手紙一5章8-11節

津村 春英 牧師

19世紀のクリミヤ戦争で名をはせたナイチンゲールは、当時の陸軍病院での死亡の大半は、負傷よりも感染症が原因であることを突き止めたと言われます。現在、私たちは新型コロナウイルスの感染防止に努めていますが、一般的に、感染は病原体の感染力と人の免疫力に関係するそうです。

ペトロの手紙一は、迫害をはじめ、いろいろな苦しみの中にいるキリスト者を励ますために書かれたと考えられます。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」(5:9)とありますが、主イエスを信じる信仰という免疫力によって、ぐらつかないで、悪魔に対峙しなさいと励ましています。獲物を探し回っているライオン(悪魔の比喩)に対して、少しでも隙(すき)を見せると襲いかかられます。勇ましく言っても、とても勝てる相手ではありません。なお、上記の下線部の原語は、「抵抗する」(新共同訳)や「対抗する」(新改訳2017)ではなく、「向き合って立つ」という語です。

こうして、「キリストを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」(同10)とあるように、キリストによって永遠の栄光に招かれた者として、信仰によって歩みましょう。

2022年8月28日の礼拝宣教から

「将来と希望を与えるもの」  エレミヤ書29章10-14節

安 喆寓信徒伝道師

新型コロナウイルスと戦い続けた3年間、私たちの生活は様々な変化がありました。行動制限の影響による外出の禁止、マスクの着用、手の消毒など人との接触が制限される、考えたこともない事態を迎えていました。いつこのような状況が終わるのか、我々の限界が見えていく時期でもあります。エルサレム神殿が破壊され、バビロンに連れて行かれたイスラエルの民はいつ自分たちの地に戻れるのか将来がわからないまま不安の日々を過ごしていきました。その人々に神様は預言者エレミヤを遣わし、「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(29:11)とあなたたちを本来の場所に戻す神様のご計画をよく知っていると伝えました。

そのためには、条件がありました。一つは、「わたしを呼び、来て祈ること」もう一つは、「心を尽くしてわたしを求める」ことでした。まさに今日、私たちが成すべき姿勢であります。私たちは常に神様を求め、祈り続けなければならないです。いつ終わるか先が見えないコロナ禍の中、皆様にとって将来と希望を与えるものは何でしょうか。普段の生活に戻れるように回復の希望を持って祈りましょう。必ず神様は私たちを助け、力づけてくださいます。