2023年7月23日の礼拝宣教から

「御子が現れるとき」 ヨハネの手紙一2章28節~3章3節

津村春英牧師

 かつては夏休みになると、都会の子どもたちは、田舎の祖父母の家に預けられる習慣がありました。孫に会う、おばあちゃん、おじいちゃんに会う、などの楽しみがありました。

 初期のキリスト者は、主にお会いしたい、「主よ、きたりませ」(マラナ・タ)という言葉をお互いに交わし合い、再臨の希望を持って信仰の道を歩みました(コリント一16:22)。彼らは、厳しい現実に直面しながらも、再臨への期待と憧れに生きていました。現代の私たちはどうでしょうか。現世のことのみに執着し、再臨待望が希薄になっていませんか。

 ヨハネの手紙一の著者はこのことを「御子の現れのとき」と表現しました。「御子が現れるとき、御子に似た者になるということを知っています。」(3:2)とあります。御子イエス・キリストの現れを待ち望むことは、決して、現実逃避ではありません。生きていく力です。天に思いをはせる時、私たちの信仰は拡がって行きます。私たちは洗礼を受けて、信仰の旅をスタートします。スタートがあればゴールもあるはずです。そのゴールを内村鑑三は、「信仰が完成される日」とし、その途上は罪の身をもって罪の世にあると書いています(『一日一生』角川文庫、pp.19-20)。日々、主の前に悔い改め、主の恵みを待ち望みたい。

2023年7月16日の礼拝宣教から

「御子の内にとどまる」 ヨハネの手紙一2章24~27節 

津村春英牧師

 最近、線状降水帯という言葉が盛んに使われるようになり、ゲリラ豪雨、川の氾濫、土砂災害など、各地で多くの災害が発生しています。地球温暖化が原因だとすると、これからもっとひどくなると予想されます。

 人生の試練という線状降水帯、そこには記録的短時間大雨が降ることもあります。その時、あなたは大丈夫ですか。聖書には、人生の天気図や天気予報が書かれているように読めます。人生の安全な場所はどこでしょうか。今日のみ言葉に、「だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(27)とあります。このみことばの直接的な背景は、御子の受肉を否定する異端思想ですが、「とどまる」という原語は新約聖書中、ヨハネ文書に多く見られ、顕著なのはヨハネ福音書15章のブドウの木のたとえの枝が木につながる(とどまる)ことにより実を結ぶというイメージです。

 今、私たちにおいて、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、体に感じるものなどに惑わされてはいけません。病気や、老いていく自分に負けてはなりません。それは人生の線状降水帯であるかもしれません。そのような時にこそ、イエス・キリストを通して現わされた神の愛、その主イエス・キリストの恵みの内にとどまり、救いを得ましょう。

2023年7月9日の礼拝宣教から 

「御子を告白する」 ヨハネの手紙一2章18~23節

津村春英牧師

 先日、同郷で、和歌山高専の2年後輩の者が、私の近況を知って、懐かしく思い、遠くから長い電話をくれました。彼は、1年前の奈良西大寺の銃撃事件で取りざたされた宗教団体で50年間も活躍しているということでした。久しぶりに電話をくれた彼に、「あなたの信仰は異端だ」とは言えませんでした。彼は私に、「伝道に命を懸けている」と言いました。私たちはどうでしょうか。

 「御子を否定する者は皆、御父を持たず、御子を告白する者は、御父を持っているのです。」(2:23聖書協会共同訳)とありますが、「否定する者」とは、御子イエス・キリストがこの世に人として来られた、つまり「受肉」されたということを認めず、否定する者です。これが著者の教会における異端思想でした。他方、「告白する者」とは御子の「受肉」を信じ受け入れ、公言する者です。そして、「告白する者」は「御父を持っている」、つまりヘブライ語的に解釈すると、「御父の内にいる」ということです。御父から遣わされた御子イエス・キリストは、神であられたのにこの地上に肉体をもって住まわれました。罪以外は私たちと変わらない生活をされ、同じような苦しみを経験され、そして、十字架を耐え忍んで私たちの罪を赦してくださいました。心から感謝します。私たちは、しっかりとこの信仰を告白し続けることができるよう心したいものです。そして、御父である神様の内におられるようにしてくださいと祈りましょう。

2023年7月2日の礼拝宣教から

「神の子どもとして生きる」 ローマの信徒への手紙8章14~17節

川﨑真奈伝道師

 皆さんは日々の信仰生活をどのようにお過ごしでしょうか?奴隷は、主人の顔色をうかがって、「~しなければ」と義務感から行動します。一方で、愛なる親のもとにいる子どもは、安息と喜びがあり、「~したい」と自発的に行動します。私たちと神様との関係は、奴隷と子ども、このどちらに近いでしょうか?

 聖書は、私たちは神の子どもとして、「アッバ、父よ」と親しく呼ぶことができる、それを内なる御霊が証ししてくださるといいます。放蕩息子の父、あの姿こそ天のお父さんの姿です。与え、忍耐し、赦す愛。神の子である私たちは、いつもこのお父さんの愛のもとに帰ることができるのです。

 神の子どもとして生きるとは、日々この神様との愛の関係に生きることです。神様の愛を感謝して受け取り、このお方を愛する、人格的な交わりの歩みです。イエス・キリストを信じて救われた私たちは、天国行きの切符をもらって終わり、ではありません。どうぞ、一日の始まりに「主よ、今日もあなたの子どもとされていることを感謝します。あなたを愛します。」と祈ってみてください。主ご自身が、私たちの信仰生活を豊かに祝福したいと願ってくださっています。私たちは、日々“神の子アイデンティティ”に立って、天のお父さんとの関係に安息し、喜びと楽しみをもって生きようではありませんか!

2023年6月25日の礼拝宣教から

「御父の愛」 ヨハネの手紙一2章15~17節(聖書協会共同訳)

津村春英牧師

 「世も世にあるものも、愛してはなりません。世を愛する人がいれば、御父の愛はその人の内にありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、見栄を張った生活は、御父から出たものではなく、世から出たものだからです。」(聖書協会共同訳2:15, 16)。下線部は、新しい翻訳の聖書協会共同訳(2018)と新改訳2017では、いずれも旧版の「御父への愛」「御父を愛する愛」から「御父の愛」に訳し変えています。それは、後に続く「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」(3:17)や、「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(4:12)とも符合します。

 「世」とは、ヨハネ文書では、神の愛の対象でありながら、その神の愛を受け入れない存在です。「肉の欲」は、悪徳、淫行へ導きます。「目の欲」は所有欲、強欲。「見栄を張った生活」は生活のおごりであり、神から求められている愛の実践とは真逆の生き方です。私たちには御父の愛が必要です。神の愛により、試練の中にあっても希望を持ち続けることができるのです(ローマ5:3-5)。私たちの心が御父の愛で満たされるよう、自らを見つめ直しましょう。