2024年1月28日の月例召天者記念会の奨励から      

「深紅のよりひもが希望」 ヨシュア記2章18節

津村春英牧師

 私たちの教会では、私が牧師として就任以来、37年間にわたって、その月に召された方々の月例召天者記念会を、ご遺族を招き、教会主催で定期的に行っています。故人の思い出を語り、分かち合いながら、自らの人生を顧みる、良きときであり、歴とした伝道プログラムなのです。

 古代イスラエルの民が40年間の荒野彷徨を終えて、約束の地カナンを目前にしました。ヨルダン川を渡っての最初の難関が、城壁の町エリコでした。そこで密かに二人の斥候を遣わしますが、彼らをかくまった宿の女主人ラハブは、イスラエルが進攻してくるときに、彼女の一族郎党の救いの確約を求めました。そして、「我々がこの地に攻め入るとき、この深紅のよりひもを、我々をつり降ろした窓に結び付けておきなさい。」(ヨシュア記2:18、聖書協会共同訳)との言葉をその斥候から引き出しました。こうして、窓に結んだ「深紅のよりひも」ティクバー(ヘブライ語)が救いのしるしとなったのです。ティクバーにはrope, expectation, hopeの意味があります(ランデルマン真樹『ヘブライの宝もの』2021, pp.243-244.)。

 先に召されたお母さん、お父さん、おばあさん、おじいさんたちが、結び付けてくれた「深紅のよりひも」が、希望であり、救いなのです。

2024年2月18日の礼拝宣教から

「麦と殻」 ルカによる福音書3章15-22節

津村春英牧師

 バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で多くの人に洗礼を授けましたが、彼らに向かって、来るべきメシアは自分ではなく、「私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。」(16-17)と終末論的審判者としてのイエスについて語りました。下線部の「箕」は、実のある麦と実のない殻を風力によって分けるものですが、日本でかつて見られた竹ひごで編んだ大形のちり取りのようではなく、片手(「その手」は単数形)で持てるフォークかシャベルと思われます。殻は麦と分離され、集められて火で焼き尽くされて(裁かれて)しまいます。

 前回の悔い改めにふさわしい実では、倫理的な行動が要求されましたが、ここではその実が永遠の命に至る実であるかどうかが問われています。そして、「聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(22)とありますが、「愛する子」はメシア的王(詩編2:7; 使徒13:23-33)を、「心に適う」(イザヤ42:1)は苦難の僕を暗示すると解されます。上記の麦は、この主の十字架の贖いを受けて、試練の中でも忍耐して実を結ぶ麦なのです(8:15)。

2024年2月11日の礼拝宣教から

「悔い改めにふさわしい実」 ルカによる福音書3章7-14節

津村春英牧師

 バプテスマのヨハネは、洗礼を受けに出てきた群衆に対し、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と迫りました(3:7)。蝮(まむし)とは毒をもつ蛇のことで、創世記3章に登場する蛇とは単語(原典ヘブライ語からのギリシア語訳)こそ違いますが、サタンに従う者たちという意味で、その毒は人を死に至らせます。そんな生き方をしていたら駄目だ!とヨハネは叫んだのです。ではどうすればよいのでしょうか。先ずは、今までの歩みを「悔い改める」こと、そして、「悔い改めにふさわしい実を結ぶこと」、これが答えでした。ただし、それは普段の生活の中でできることで、自分の持っているものの分かち合いであり、徴税人は、命じられたもの以上を取り立てないことであり、兵士(恐らく、ガリラヤとベレアの領主ヘロデ・アンティパスに仕えた者たち)は、恐喝などをせずに、自分の給料の額で満足することでありました。

 このように、悔い改めにふさわしい実を結ぶということは、特別なことではなく、自分の置かれた場所で、正直に真心から主に仕えることなのです。徴税人には徴税人なりの、兵士には兵士なりの仕え方がありました。では、あなたはどうですか、どう行動しますか、あなたにできることは何でしょうか、と問われています。悔い改めにふさわしい実を結びましょう。

2024年2月4日の礼拝宣教から

「神の救いを見る」 ルカによる福音書3章1-6節

津村春英牧師

 いつ、どこで発生するか分からない自然災害に対し、予報があれば、ある程度の備えができます。また、予測できない場合には、その発生をできるだけ早く人々に伝え、人々が自らの身を守る行動がとれるよう、適切な指導が必要です。

 バプテスマのヨハネは、旧約聖書の預言が実現する時を神様から知らされ、それを人々に伝え、人々の救いを指導した人物です。その時は迫っていました。そのために、人々に、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えました。それは、イザヤ書40:3-5にある、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(3:4-6)というメッセージでした(下線部はルカの追加)。これは地形について言っているのではなく、救い主を迎える心の状態を表しています。悔い改めるなら、貧しさや苦しみを経験している低い谷は埋められ引き揚げられます。他方、山や丘のような高ぶった心は低くされます。曲がった心は素直にされます。凸凹した岩のようなかたくなな心は、砕かれ平らにされます。こうして、人々は皆、イエス・キリストによる神の救いを見ることができるとヨハネは伝えました。私たちはこの声をどう聞きますか。

2024年1月28日の礼拝宣教から

「神殿でのイエス」ルカによる福音書2章41-52節

津村春英牧師

 ルカの福音書だけに、主イエスの少年時代が描かれています。時には読み過ごしてしまいそうなところにも意義があります。イエスが12歳になった時も両親は過ぎ越しの祭りのためにナザレからエルサレムに上りました。帰路の途中で、イエスがいないことに気づき、引返してみると、神殿で律法学者たちと問答をしているのを発見します。そのやり取りを聞いていた人たちは皆、イエスの賢さと受け答えに驚嘆したとあります(2:46-47)。それから、イエスは両親と一緒にナザレに帰り、「両親にお仕えになった。」(51・聖書協会共同訳)とあります。下線部の原語は「ずっと従った」であり、イエスでさえ、両親に服従したというのです。また、「イエスは神と人から恵みを受けて、知恵が増し、背丈も伸びていった。」(52・聖書協会共同訳)とあり、決して、お生まれになった時から超自然の力を持っておられたのでなく、神との関わりとともに、人々との関わりによって成長して行かれたのだとルカは書いているように思えます。

 私たちも、視野の狭い、偏った信仰者であってはならず、神に仕えることは勿論のこと、人にも仕えることと、神と人から恵みを受けて成長していくことを心に銘記したいものです。