2024年2月18日の礼拝宣教から

「麦と殻」 ルカによる福音書3章15-22節

津村春英牧師

 バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で多くの人に洗礼を授けましたが、彼らに向かって、来るべきメシアは自分ではなく、「私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。」(16-17)と終末論的審判者としてのイエスについて語りました。下線部の「箕」は、実のある麦と実のない殻を風力によって分けるものですが、日本でかつて見られた竹ひごで編んだ大形のちり取りのようではなく、片手(「その手」は単数形)で持てるフォークかシャベルと思われます。殻は麦と分離され、集められて火で焼き尽くされて(裁かれて)しまいます。

 前回の悔い改めにふさわしい実では、倫理的な行動が要求されましたが、ここではその実が永遠の命に至る実であるかどうかが問われています。そして、「聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(22)とありますが、「愛する子」はメシア的王(詩編2:7; 使徒13:23-33)を、「心に適う」(イザヤ42:1)は苦難の僕を暗示すると解されます。上記の麦は、この主の十字架の贖いを受けて、試練の中でも忍耐して実を結ぶ麦なのです(8:15)。