2023年8月27日の礼拝宣教から

「真理を見分ける試金石」 ヨハネの手紙一4章1~6節 

津村春英牧師

 熱戦が繰り広げられた夏の全国高校野球選手権大会は、慶應義塾高校の優勝で幕を閉じました。プロ野球のスカウトたちは将来の逸材をどのようにして見分けるのでしょうか。 

 ヨハネの手紙一に関連する教会は、御子の受肉を否定する異端思想との戦いの中にあり、既に出て行った者たちもあり、真理の霊と偽りの霊とを見分けるよう警告されています。ここでいう「霊」とは人の内に入り、その人に影響を及ぼすものであり、その人そのものを指すこともあります。そこで、「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(4:1)と勧められます。下線部の原語は「試験する」という意味合いです。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」(同2)「神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」(同6)とあるように、真理の霊(神の霊)を見分ける試金石は、現代の私たちにとっても、「御子イエス・キリストの受肉(贖罪の十字架)」の告白と、「み言葉に聞く」ということです。

2023年8月20日の礼拝宣教から

「心の安らぎはどこから」 ヨハネの手紙一3章19~24節

津村春英牧師

 人は、いつの時代も不安にさいなまれてきました。それは古代から現代まで変わらない事実です。予測できない未来の災いに対して、少しでも安心できるよう、「お守り」などを身に着けます。キリスト者はどうでしょうか。

 今日の聖書のみことばを見てみましょう。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」(3:18-20)とあります。「神の御前」とは最後の審判のイメージです。後半部分を原 文から直訳すると、たとえ私たちの心が自分を責めたとしても、神(のお心)は私たちの心よりも大きく、神はすべてをご存じだから、私たちは自分の心を説得する(安んじる)のです、となります。

 過去を振り返って、私たちはいったい誰にゆるしを請いますか…。主イエス・キリストの十字架によって罪は赦されているのです。新聖歌465の4番、「その日を望みて 互いに励まし 十字架を喜び 負いて進まん 嘆きも悩みも しばしの忍びぞ 楽しきたたえの 歌と変らん」のように、安心して、揺るがぬ信仰をもって進みましょう。

2023年8月13日の礼拝宣教から

「キリストの愛を知りましたか」 ヨハネの手紙一3章13~18節

津村春英牧師

 8月12日は日航機墜落事故から38年、また8月15日は終戦記念日。生きたくても生きることができなかった多くの犠牲者が、愛する家族に伝えたかったことは何だったのでしょうか。そして、それを知った受信者はどのようにそれに応えるのでしょうか。

 「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。」(ヨハネ手紙一3:16・聖書協会共同訳)。これがヨハネの手紙一の書き手が、主イエス・キリストから受けて(ヨハネ福音書15:13)、教会に伝えたかったメッセージです。しかし、「一つしかない命を捨てることなんかできない」と反論するでしょう。続く17節に、その具体例が示されます。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」(手紙一3:17)と。当時の教会の人々の状況が反映されています。コロナ禍の中にあっても、私たちにできることがあるはずです。イエス・キリストの愛、父なる神の愛を知って(理解して)、その愛にどのように応えるのでしょうか。まずは、祈りから、そして、一歩前に踏み出しましょう!

2023年8月6日の礼拝宣教から 

「カインのようになってはいけない」 ヨハネの手紙一3章11~12節  

津村春英牧師

 今日、8月6日は広島に原爆が投下された日です。かつてはこの季節、「原爆をゆるすまじ」という歌をよく歌いましたが、最近は聞かれませんし、替わる歌もないように思います。「三たび、ゆるすまじ原爆を」という歌詞が印象的です。人類は過去から学ばねばなりません。

 今日の聖書の箇所に、「カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」(3:12)とあります。この背景は創世記4章にありますが、行いが正しいか、悪いかというのは神の評価です(cf.ヘブライ11:4)。「正しい」とは、神の御心を行うことであり、神に喜ばれる生き方です。そのうちの重要な一つが、「兄弟を愛する」ということです。「カインのようになってはいけない」とは、殺人者になってはいけないというより、カインは兄弟を憎み、兄弟を愛せなかった、そういうカインになってはいけないということです。さらに読み進むと、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(4:20)とあります。愛することです。愛することです。愛することです。カインのようになってはいけません。

2023年7月30日の礼拝宣教から

「自分の心をのぞいてみよう」 ヨハネの手紙一3章4~10節

津村春英牧師

 心は昔、心臓にあると考えられていて、心という漢字は心臓の形から来ていると言われます(白川静『常用字解』)。現代人は、思考することや、感情の管理などは脳の働きによると知っていますが、心臓も感情の変化に敏感に反応します。心は命に関わります。

 「子どもたちよ、誰にも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子が正しいように正しい人です。」(3:7聖書協会共同訳)とあります。「子どもたち」とは神の子どもとされているキリスト者全員です。「惑わされないように」というのは惑わす存在があるからです(cf.2:18反キリスト)。「義を行う」とは、主イエスがそのご生涯において、徹頭徹尾、父なる神の御心に従いとおされたように、私たちも神の御心を行うことです。

さらに、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。」(同9)とあります。「種」ギリシア語スペルマはヘブライ語ゼラー(旧約聖書では主に、子、子孫の意)の訳語ですが、「神から生まれた」と同じ意味です。だから、罪を犯すことが出来ないというのです。自分の心をのぞいてみましょう。心は、主イエス・キリストの十字架の救いによる喜びと感謝で満たされていますか。悪魔は心の空洞に入り込んでくるのです。