2024年1月21日の礼拝宣教から

「ある女性の生涯」 ルカによる福音書2章36-40節

津村春英牧師

 人間以外の野生の動物は老いずに死ぬが、人間は人との「関わり」によって老いて長生きするそうです(小林武彦『なぜヒトだけが老いるのか』講談社現代新書、2023)。年賀状は、その関わりを大切にする表現方法の一つで、人生の機微に触れることができ、自らの在り方を見つめ直す良い機会になります。

 主イエスの誕生物語で、シメオンとアンナという、救い主の登場を待ち望む二人の老人が絶妙の連係プレーをします。女預言者アンナは若くして(原語は「処女のときから」:早ければ12歳からか)結婚しますが、7年後にやもめになり、今は84歳にもなっていました。しかし、「彼女は神殿を離れずに、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」(2:37)とあります。下線部の原語は一般的な祈りのプロセウケーではなく、デエーシスで、大抵は「願い」と訳され、必要とするものを求める祈りを意味します。シメオンの預言の後、アンナが感謝の賛美をささげ、エルサレムの救い(贖い)を待ち望んでいる人々皆に、幼子のことを話し、預言者としての最後の務めを果たしたのです。

 神殿(現在では教会)を離れず、目標を持って祈り、神との深い「関わり」の中で、試練を乗り越えることができると教えられます。この一年、そのようでありたいと思います。

2024年1月14日の礼拝宣教から 

「御言葉による安らぎ」 ルカによる福音書2章21-35節

津村春英牧師

 大学入学共通テストが昨日、今日と行われています。通らねばならない一つの節(ふし
、turning point)です。人生には、個人差はあれ、入園式、入学式、入社式、結婚式、就任式
など、入るだけでもいろいろありますが、全員、葬式で終わります。

 マリアとヨセフは、初子の男児イエスの儀式のために、エルサレムの神殿に上りました。甲子
園球場の1.5~2倍もあるという神殿の境内で、人生最後の望みをいだいた老人シメオンと出会い
ます。シメオンは幼児を腕に抱き、神をたたえて歌います(Nunc Dimitis)。「主よ、今こそあ
なたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを
見たからです。」(2:29, 30)と。「神を見る」というと、何か神秘的で凡人にはとても無理だ
と思うかもしれません。しかし、「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます
。」(ヤコブ4:8)とあるように、主イエスの十字架による救いに感謝し、その御業を賛美する
ことを通して、心で神を見ることができます。平穏無事だと安心している中で、突然、試練に見
舞われることもあります。

 しかし、どのような状況にあっても、神を見ることができるなら、平
安が与えられることを教えられます。

2024年1月7日の礼拝宣教から

「キリスト者として」   ローマの信徒への手紙12章9~12節

津村春英牧師

 使徒言行録やペトロ前書に、「キリスト者」クリスティアノスという語が出てきますが、それは、その語尾から、キリストに「従う者」を意味しています。他方、使徒パウロは、「キリストにある者」と表現しています(聖書協会共同訳)。新共同訳では「キリストに結ばれた人」と意訳していますが、それはイエス・キリストの十字架と復活に結ばれているという意味なのでしょう。

 ローマ書12:9~21には、その「キリストにある者」の新しい生活指針が示されていますので、語彙を調べつつ深く味わいましょう。まず、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず」(9)とあります。下線部は「演技をしない」の意味で、「愛」アガペーは神の愛で、真実の愛なのです。キリスト者の愛もそうであるように勧められています。具体的には、磁石のように、悪から離れ、善に執着すること。兄弟愛をもって親身に愛し合い、自ら進んで相手を目上のごとく敬う(敬愛)こと。さらに、熱心(迅速の意)で躊躇せずに、霊に燃えて(沸騰するほどの熱意をもって)主に仕えること。さらに、希望をもって喜び(希望があるから喜べる)、苦難に耐え(逃げ出さない)、たゆまず(離れず)祈ること、などが続きます。この新しい一年、私たちの努力目標として励みましょう。

2023年12月31日の礼拝宣教から 

「主は今まで我々を助けてくださった」  サムエル記上7章1~12節

川﨑真奈伝道師

 サムエルが預言者となる頃、イスラエルの民はペリシテ人との戦いに苦しんでいました。契約の箱を取り返してからも、霊的に飢え渇いていた彼らは、サムエルの助言を通して、偶像礼拝を悔い改め、まことの主に立ち返ったのです。

 その後ペリシテ人が攻めてきた時、彼らは主により頼みました。数々の試練の中で、人は変えられていきます。自分の力で対処するのではなく、神様のもとにのみ解決の道があることを知るようになります。主は苦しみの中で、叫ぶ者の声を聞かれ、必ず導いていてくださるのです。そして、彼らは主の助けによって完全な勝利を得ました。

 そこでサムエルは、「今まで、主は我々を助けてくださった」と記念の石を置き、エベン・エゼルと名付けました。「石を置く」ということは、神様への感謝を心に深く刻むということ、そしてその感謝を他の人々と分かち合うということを意味しています。

 この1年、皆さんはどのような歩みをされたでしょうか?試練の時も、勝利に喜ぶ時も、今日まで主はずっと私たちと共にいてくださり、導いてきてくださったのです。サムエルがエベン・エゼルの石を置いたように、私たちもこれまでの主への感謝を心に刻み、共に分かち合っていこうではありませんか!

2023年12月24日の礼拝宣教から

「主イエスの誕生」   ルカによる福音書2章1~7節 

津村春英牧師

 今日の箇所から、二つの疑問がわいてきます。第一に、マリアが救い主を宿して身重になっているときに、それぞれ自分の町に帰って「住民登録をせよ」との権力者の勅令発布をなぜ、神さまはお許しになったかということです。マリアとヨセフは長距離移動を余儀なくされ、決して容易な旅ではなかったと思われますが、無事にベツレヘムに着くことができました。文言はありませんが、信仰深い二人ゆえに、神さまが共にいてくださったからでしょう。

 第二に、身重のときの移動なら、せめて、安全に出産できる「場所」がなぜ、用意されていなかったかということです。彼らには2階の客間でなく、外気の寒さから家畜を守るための1階しか「場所」(トポス:状態、地位も表す)がなかったのです。マリアはそこで主イエスを出産し、産着(おくるみ)にくるんで(原語は「くるむ」という動詞だけ)、飼い葉桶に寝かしたとあります。ただし、1階と言えども、そこは、夜露をしのぐことができ、産婆さんやお湯の手配を、その家にお願いできる環境であったと思われます。

 この主イエスの誕生物語から、私たちの人生の「なぜ」に対する答えを見いだすことができますか…。信仰を持って歩むなら、どのような場所(トポス)にあっても、神さまが共にいてくださるから大丈夫だと教えられます。