2023年2月19日の礼拝宣教から

「愛の内にとどまる人」 ヨハネの手紙一4章11-16節

津村春英牧師

昔、子どもたちとテレビドラマ「大草原の小さな家」をシリーズで見ました。古き良きアメリカの開拓時代、一家が様々な困難を乗り越える姿を通して、家族愛や人間愛の尊さを描いたものです。日本でも何度も再放送されるのは、いつの世も、親が子どもを思う愛、子どもが親を思う愛、夫婦の愛、家族の愛、人間相互の愛が大切だからでしょう。

ヨハネの福音書の背景には会堂追放(9:22; 12:42; 16:2)という試練があり、互いに愛し合うことが主イエスの弟子に求められました(13:35)。ヨハネの手紙一でも、教会の仲間が教会から去って行く(2:19)という危機的な状況にあり、互いに愛し合うことが求められました(3:11, 23; 4:7, 11)。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(4:16)とありますが、この「とどまる」は、原語ギリシア語ではメノー(英語abide)で、「存続する」の意味合いがあり、神の愛の内にとどまる人は、その神の愛の実践をなおざりにはできません。コロナ禍の影響もあって礼拝出席者が減少している私たちの教会も、神の愛が全うされる(4:12)ために、主イエスの弟子である私たちには、互いに愛し合うことが求められているのではないでしょうか。

2023年2月12日の礼拝宣教から      

「主は人の心を知っておられる」ヨハネ福音書2章23-25節

津村春英牧師

律法に忠実に生きようとするファリサイ派でユダヤ議会の議員という地位にあるニコデモという人が、夜(人目を避けてか)、主イエスに会いに来ました。主は彼に、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3:3)と言われました。下線部は、もう一度、上から(主の霊によって)という意味もあり、信じること(2:23)だけでなく、「霊から生まれる」(3:8)ことの重要性を説かれたのです。確かにヨハネ福音書では、主が復活後に弟子たちに対して、「聖霊を受けなさい」(20:22)と強調されています。キリスト者は洗礼を受けた時に聖霊にあずかりますが(ヘブライ6:4)、聖霊に満たされる必要があります。

先週発生したトルコ・シリア大地震で、耐震性能の低い建物が次々と倒壊し、多くの犠牲者が出ています。人生にも、ある程度予測できることと、全く予測できないことがあります。その危機に対して私たちは大丈夫でしょうか。なぜ、こんなことになるのか、なったのかと嘆くのでなく、主の霊、聖霊に満たされることにより、物事の本質がよく見え、平安が与えられるのです。主は私たちの心を知ってくださっているのですから(2:24, 25、ニコデモ、サマリアの女性、ベトザタの池の病人など)。れが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(8:35)と問いかけます。現代的に言うなら、「病気か、老いか」も追加されることでしょう。なお、下線部の原語は「狭い」を意味し、精神的な行き詰まりが想像できます。これは架空の話などではなく、パウロの実体験でもあります(コリント二11:23-27)。「しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります…高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」(8:37-39・聖書協会共同訳)と断言しています。

たとい自分がボロボロの状態にあると思っても、十字架と復活と執成しをもって愛してくださる主イエス・キリストによって、私たちは勝利者なのです。どんなものも、神の愛から私たちを引き離すことなどできないのです!

「勝利者はいつでも 傷つき悩みながら それでも前に向かう」(♪小坂忠「勝利者」)

2023年2月5日の礼拝宣教から         

「神の愛から引き離すことはできない」ローマ信徒への手紙8章31-39節

津村春英牧師

紀元一世紀の大都市ローマにいるキリスト者も例にもれず、信仰の戦いの中にありました。パウロは彼らに、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(8:35)と問いかけます。現代的に言うなら、「病気か、老いか」も追加されることでしょう。なお、下線部の原語は「狭い」を意味し、精神的な行き詰まりが想像できます。これは架空の話などではなく、パウロの実体験でもあります(コリント二11:23-27)。「しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります…高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」(8:37-39・聖書協会共同訳)と断言しています。

たとい自分がボロボロの状態にあると思っても、十字架と復活と執成しをもって愛してくださる主イエス・キリストによって、私たちは勝利者なのです。どんなものも、神の愛から私たちを引き離すことなどできないのです!

「勝利者はいつでも 傷つき悩みながら それでも前に向かう」(♪小坂忠「勝利者」)

2023年1月29日の礼拝宣教から

「試練の中の希望」 コリント信徒への手紙一10章11-13節

津村春英牧師

厳しい寒波が日本列島を襲っています。先週、札幌がマイナス13度を記録したということですが、私の息子は、そのような中、シベリヤ抑留に耐えた祖父を思い起こし、心励まされ歩いたとメールをよこしました。

一世紀のコリントというローマ元老院直轄の州都には、女神の大神殿があり、その影響下にあるキリスト者に対して、パウロは、彼らの偶像礼拝、淫行、不信仰、不平(10:7, 8)などの状況を知るに及び、出エジプトの出来事と主イエス・キリストとを重ね合わせながら、それらの出来事は、私たちを戒めるための前例テュポイ(英語ではtypeの複数形)(同6)であり、彼らに前例テュピコース(英語ではtypical)として起こった」(同11)と繰り返し、信仰に堅く立つよう励ましました。そして、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(13)と加えました。

この逃れる道(出口の意)は、村岡花子訳『少女パレアナ』の「喜び探し」のようなものだと思います…。希望をもって歩みましょう。

2023年1月22日の礼拝宣教から 

「信仰によってもう一歩」 マタイによる福音書14章22-23節

津村春英牧師

人生の嵐に遭遇したことがありますか。主イエスの弟子たちはガリラヤ湖で、舟で目的地に向かう途上、嵐に遭遇し、夜明けまで格闘しました。その時、主イエスは水上を歩いて弟子たちのところに来られたのです。悩む弟子たちに、「安心しなさいわたしだ。恐れ

ることはない。」(14:27)と言われました。前の下線部は、「しっかりしなさい」の意で、後の下線部は、旧約聖書以来の安全保障の言葉でありました(創世記15:1など)。ペトロは何を思ったのか、自分も水上を歩くことを主に求め、歩き出しましたが、風を見て(主から目を離し)、沈みそうになりました。そのペトロに対し、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。」(14:31)とあります。下線部の「疑う」の原語ディスタゾーのディスは二度を意味し、文字通り、二の足を踏んでもう一歩が出なかったのです。

人生、生まれてから死に至るまで、不安がない時などありません。いつも不安が付きまといます。しかし、「しっかりしなさい。恐れることはない。私がいるではないか」と声をかけてくださる方が、傍にいてくださるのは、なんと心強いことでしょうか。困難の中にあっても、主イエスを救い主と信じる信仰によってもう一歩踏み出しましょう。