『誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。』
(Ⅱコリント5章17節・聖書協会共同訳)
(Ⅱコリント5章17節・聖書協会共同訳)
津村春英牧師
「放蕩息子のたとえ」と言われる話には続編があります。その兄が登場します。むしろこちらに重点があるという考えもあります。兄は畑から帰ると、家から音楽(シンフォニア)が聞こえてきました。英語はシンフォニーsymphonyで文豪森鴎外によって「交響曲」と訳されました(広辞苑)が、ギリシア語のシンフォニアはシュン(一緒に)+フォーネー(音、声)で、いくつかの楽器が鳴らされていたと想像できます。勝手気ままに家を出て、放蕩に身をもちくずしたと聞いていた弟息子が帰ってきて、父が宴会を催していると聞き、兄は激怒しました。父は自ら出てきてこの兄息子を宥めました(動詞は継続・反復形)。
この話は、主イエスがファリサイ派の人々や律法学者に言われたのであり、たとえの兄息子は彼らを指し、弟息子は、彼らと同じ話を聞いていた徴税人や罪人であり、前者からすれば後者は滅んで当然だと見下していた人々でした。しかし父(神)は違いました。悔い改めた罪人を歓迎してくださり、大いに喜んでくださるのです。兄息子にはこの父の愛が見えていませんでした。本来あるべき場所から外れて立っていたからです(ヘブライ語の「罪を犯す」は的を外すの意味)。人生いろいろです。私たちにもこの神の愛が見えていますか。
津村春英牧師
「見失った羊」、「なくなった銀貨」のたとえに続く「いなくなった息子」のたとえは、「放蕩息子」のたとえとしてよく知られています。前二者に比べ、意識的にあるべきところから外れたケースです。生存している父から遺産をもらい(後代のミシュナやタルムードから、生前贈与はあり得たと推察)、換金して遠い国に旅に出、放蕩の限りを尽くして散財し、落ちぶれて、行きついたところはユダヤ人の嫌悪する豚の飼育でした。その飼料のいなご豆(モロッコインゲンの短いものに似ている)のさやを食べたいほどだったと書かれています。そこでやっと気づき、父のもとに帰ります。父は彼を見つけるやいなや、走り寄って抱きしめたというのです。さらに、服、指輪、履物などを与えて息子の復権を図り、宴会を僕たちに指示しました。これは「愛の神のたとえ」です。
肉親の父に抱かれたことは、「覚えていないだけ」(cf.映画「武士の家計簿」の終わりのシーンの父のことば)かもしれません。霊の父(ヘブライ12:10)は、私たちが本来いるべきところに帰ることを望んでおられます。この父のもとに帰りましょう!父なる神は走り寄って迎えてくださいます。そして、ギュッと抱きしめてくださいます。
津村春英牧師
「記録より記憶に残る選手になりたい」と言ったミスタープロ野球、伝説の人が亡くなられました。人々の心に残されたものがあることでしょう。主イエスは弟子たちに約束を残されました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」(ヨハネ14:6)。そして、「この方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(同16:8)と、弁護者と表現される聖霊の降臨の約束をされ、ペンテコステの日にそれは起こりました。
ルカ福音書15章の三つの失われたものの救い(1-7; 8-10; 11-32)には、「悔い改める一人の罪人」がクローズアップされています。旧約聖書ヘブライ語の「罪を犯す」ハッターは「的を外す」という意味があり、目標を見失っているということです。「罪の悔い改め」とは、本来の目標に向かうことです。見失った一匹の羊、なくした一枚の銀貨が本来のところに戻るなら、天で大きな喜びがあると主は言われました。自分の「罪」に気づかせてくださるのが聖霊で、本来のところに戻してくださるのが主イエスの十字架なのです。主に見いだされ、的を射た人生へと導かれているその喜びを分かち合いましょう。
津村春英牧師
戦後、進駐軍の政策もあり、多くの人がキリスト教会に何かを求めてやってきました。得られなかったのか、期待外れだったのか、多くの人が去って行きました。一体、どれだけの人が残ったのでしょうか。
押し寄せる大群衆を前にして、主イエスは「弟子であること」を説かれました。家族を捨て、自分の命までも惜しまず、後に続くようでなければ、弟子になることはできないと言われました。確かに、エルサレムへの旅の目的は十字架でしたので、その従者として当然の覚悟が求められたのです。そこまで言われて、果たしてどれだけの人が残ったのでしょうか。ウイリアム・バークレーは、「教会の中には、イエスに何となく従っている者が多いが、真の弟子は少ない」と書いています(『ルカ福音書』柳生望訳、ヨルダン社、1979, p.218)。
さらに主は、弟子を塩にたとえられました、塩は、防腐剤、調味料、畑の肥料として用いられました(同pp.219-220)。塩は自分をなくして周りに影響を与えるものです。まさに、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)という生き方です。天に宝を積む生き方です。最後の審判の時に、各自の天国銀行の通帳の貯金額がチェックされます。大丈夫でしょうか。
津村春英牧師
主イエスがファリサイ派の議員に食事に招かれた際、客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(14:15)と言ったので、主イエスは神の国の宴会について、次の話をされました。ある主人(神)が、宴会の時刻(最後の審判)になったので、すでに招待状を送っていた人々のところに僕を遣わしたところ、畑を買ったので、妻をめとったので、牛を買ったのでなどと弁解し、招待を断ったと僕から報告を受けました。それで主人は、再度、再々度、町中や町の外れまでも出て行って、本来招かれる予定のない人々をかき集めて席を埋めるよう、僕に命じました。これは、招待状を受けていたのに断わったのがファリサイ派の人々を含む選民ユダヤ人であり、他方、かき集められて食事の席に着くのは、悔い改めた罪人たちになるというたとえでした。
牧師も洗礼証書という、神の国の食事への招待状を発行しますが、その人が食事の席に着くことができるかどうかは、その後の、その人の生き方にかかっています。どれだけ、神様に喜ばれることをしたのか、どのように生きてきたのか、それが問われるのです。来るべき日、神の国の食事を味わう(喜びを分かち合う)ことのできる人は誰でしょうか。