2024年4月7日の礼拝宣教から 

「悪霊との戦い」 ルカによる福音書 4章31-44節

津村春英牧師

 悪霊は旧約聖書より新約聖書の方に多く見られます。また、悪霊と悪魔の区別は明確ではなく、同一と考えられます。医学が未発達のイエスの時代に、人々は、多くの病気は悪霊の仕業と考えました。しかし、現代社会に生きる多くの人は、「魔がさした」などという言葉を使いつつも、悪霊の存在を信じません。

 イエスが、ガリラヤ湖畔のカファルナウムで安息日に会堂に入られると、汚れた悪霊にとりつかれた男に出会い、「黙れ、この人から出て行け」と言われると、悪霊はその人から出て行きました。さらに、高熱で苦しんでいたシモンの姑に対し、イエスが熱を叱ると、熱は去ったとあります。まるで何かが入っていたかのようです。またいろいろな病気で苦しむ人に、イエスが手を置いて癒されると、悪霊が「お前は神の子だ」と言いながら出て行ったとあります。すべての病気の原因が、悪霊だとは言えませんが、現代医学ではどうしても説明がつかない病もあります。

 悪霊が、私たちに向かって、私たちの心の弱さ、体の弱さ、経済的な問題などをもって、「お前はダメな子だ」と私たちを責めることがあるかもしれません。そんな時には、み言葉の剣によって身を守るように勧められています(エフェソ6:13-17)。悪霊に負けてはなりません。

2024年3月31日の礼拝宣教から

「死は勝利にのみ込まれた」 コリント一15章50-58節

津村春英牧師

 違法賭博疑惑で、アメリカ大リーグに激震が走りました。「真実」の早期解明が求められています。国内では、自民党派閥の政治資金パーティー裏金事件を巡り、野党は追及の手を緩めず、「真実」を引き出そうとしています。

 さて今日は、主イエス・キリストの復活を祝うイースターです。主の復活は「真実」なのか。マタイ福音書28章には、主の復活直後に、祭司長たちは賄賂を使って兵士たちに嘘の証言をさせているシーンが見られます。しかし、パウロは言います。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(コリント一15:17)と。そして、「死は勝利にのみ込まれた、…わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(同54-57)と続けています。こうして、「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(同58)と励ましています。 

 罪から来る死(ローマ6:23)は、私たちの最強にして最後の敵であるが、主の復活による勝利にのみ込まれたというのです。心から感謝し、将来を憂えることなく、それぞれ与えられている主の業に励みましょう!

2024年3月24日の礼拝宣教から

「キリストの愛を知る」  エフェソ3章14-19節

津村春英牧師

 植物は同じ仲間同志で会話をしているそうです。木が虫に食べられ、腐り始めると、ある物質を放出して危険を隣の木に知らせ、それを受けた隣の木は、虫が嫌がるものを表面に造り出すことによって、虫はやってこないそうです。

 今日から受難週に入ります。ゴルゴダの丘で一体、何があったのでしょうか。私たちをむしばむ罪に勝利したゴルゴダの丘の十字架から発せられるメッセージを聞き取り、私たちはサタンに対してバリヤーを造っているでしょうか。

 エフェソ書3章14-19節は、ギリシア語原文ではたった一つの長い文で、二つの「とりなしの祈り」で構成されています。まず、16-17節に、父なる神がキリスト者の「内なる人」を強め、キリストを心の内に住まわせ、その愛に根差し、愛の内に自己が確立されるようにと祈っています。次に18-19節で、「キリストの愛」(原語は18節にはなく、19節にのみ出てくる)の広さ、長さ、高さ、深さをよく理解し、この人知を超えた愛を知って、神の満ち溢れる豊かさに満たされるようにと祈っています。

 「キリストの愛」が現わされたゴルゴダの十字架からメッセージが聞こえますか。信仰の耳をもって聞くのです。信仰の目をもって十字架を見るのです。祈りましょう!

2024年3月17日の礼拝宣教から

「恵みの御言葉」  ルカによる福音書4章14-30節

津村春英牧師

 主イエスはヨハネが捕らえられた後(cf.マルコ1:14)、ガリラヤに帰られ、諸会堂で教えて好評を博し、故郷のナザレに来て会堂に入られました。そこで預言者イザヤの巻物(ビブリオン:バイブルの語源)の、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(4:18-19)を読み、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(同21)と話されました。人々は、イエスを賞賛し、その恵みの御言葉に驚きます。ただし、「驚く」の原語には感嘆と反対の両方の意味があります。上記の言葉に関連して、預言者エリヤが飢饉の後に遣わされた先はユダヤ人ではなく異邦人のやもめであり、また、エリシャもツァラアトを患う異邦の将軍ナアマンに遣わされたとイエスが話されると、聞いた人々は怒り心頭に発し、イエスを崖から突き落とそうとしました。つまり、彼らが聞いた言葉は彼らにとっては恵みの御言葉にならなかったのです。

 では、私たちにとってはどうですか。どんな試練の中にあっても、神の愛が注がれていることを信じるなら、それは恵みの御言葉になるのです。

2024年3月10日の礼拝宣教から

「悪魔からの試み」  ルカ福音書4章1-13節

津村春英牧師

 大学入学試験の合否発表が出始めています。当事者にとっては一大事です。果たして一生のうち何回、試験を受けるのでしょうか。学校に入るための入学試験、会社に入るための就職試験、それに…最後は認知症の試験でしょうか。

 主イエスが公生涯に入られる時にも悪魔からの試験がありました。それは第一に、荒れ野に転がる石ころをパンにかえよという、肉の欲に対する試みでした。第二に、悪魔は高いところから世界を見せ、悪魔を礼拝するなら一切を与えるという、権力欲、名誉欲、所有欲などに対する試みでした。いずれも、主は申命記の御言葉をもって応じられました。第三の試みは、神殿の尖塔から飛び降りよという、神の子という肩書や能力に対する試みでした。これは悪魔自身が詩編の御言葉を引用しましたが、主も、申命記の御言葉をもってこれに応じられ、見事にこれらすべての試みに勝利されたのです。

 私たちも、人生の荒れ野で試練を経験します。そこで神を見失うかもしれません。悪魔の囁きがあるかもしれません。しかし、そこに、主イエスが共にいてくださることを信じましょう。そして、御言葉をもって、悪魔に勝利しましょう! 「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことが出来ます」(ヤコブ1:21)。