2018年12月2日の礼拝宣教から

『希望のメッセージ』イザヤ書 49章14-21節

主幹牧師 津村春英

 長谷川伸(大正~昭和の小説家)の戯曲に、「瞼(まぶた)の母」というのがあります。時代設定は江戸時代。主人公、番場の忠太郎が幼少のころに別れた母を慕い、ついに再会することができますが、渡世人となっていた忠太郎は母に受け入れられてもらえず悲しく去ります。母は後(のち)にできた娘可愛さに邪険にしたことを後悔し、娘と後(あと)を追うというストーリ。 
神様は預言者イザヤの口を通して、シオン(=エルサレム)と神様との関 
係を親子、恋人にたとえ、「わたしがあなたを忘れることは決してない。」(49:15)と語られました。これは、やがて古代イスラエルの民がバビロン捕囚からの帰還し、崩壊した都エルサレムの繁栄が必ず回復されるという希望のメッセージでした。同様に、キリスト誕生の時代の民も神様の救いを待ち望んでいました。キリストの誕生、それは、民の希望の成就であるとともに、現代のわたしたちの希望の源です。


 ドイツの神学者ユルゲン・モルトマン(1926年~)は、「人間は信仰によって真実の生活の道に至るが、希望のみが彼をこの道に留まらせる。そのようにして希望は、キリストへの信仰を広げ、それを生かすのである」と書いています(『希望の神学』)。クリスチャンは希望を持ち続ける人です。今年のクリスマスが、わたしたち一人一人にとって有意義でありますよう祈りましょう。

2018年11月25日の礼拝宣教から

『すべては愛によって』コリント一 16章1-24節

主幹牧師 津村春英

 コリント信徒への手紙一の最終章は、エルサレムへの募金、コリントへの旅行計画、結びの言葉で構成されています。そして、コリントにある教会の兄姉への最後の勧めは、①目を覚ましていなさい。②信仰のうちにしっかりと立ちなさい。③雄々しくありなさい。④力強くありなさい。⑤何事も愛をもって行いなさい(16:13, 14)、でした。とくに、「愛をもって」はこの書のテーマです。愛をもってキリストの教会を造り上げる(8:1)ということが目的でした。


 過日召されたKK兄のことを今日も語らずにはおれません。創立115年記念誌に掲載しましたところの老人ホームの紙芝居奉仕、そしてもう一つは、何と言っても教会玄関の看板揮毫奉仕です。これらは「愛」に基づく奉仕です。兄の2014年4月2日の手紙に、わたしが贈ったヨハネ12:24の聖句「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」が生涯忘れ得ぬ御言葉となりましたと書かれてありました。最初に落ちた一粒の麦とはイエス・キリストのことです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(同15:13)とある通りです。パウロが「愛をもって」という愛は、このアガペーの愛です(cf.コリント一13章)。愛による配慮、愛による忍耐、愛による謙遜…が求められます。御言葉を実行することができるよう祈りましょう。

2018年11月11日の礼拝宣教から

『勝利を賜る神に感謝』コリント一 15章35-58節

主幹牧師 津村春英

 人は誰も年齢を重ねると疲れやすくなり、弱り、病みがちになります。そしてついに最期の時を迎えるのです。わたしたちの最大の敵は「死」です。わたしたちから何もかも奪ってしまう「死」なのです。しかし、主イエスは死人の中から復活され、死に勝利されたのです。パウロは書いています。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(コリント一15:54-57、cf.島尾敏雄『死の棘』)。人は罪ゆえに死ななければなりません。それは律法が示すところです。しかし、主イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、復活によって死から命へと移され、人は死の力に打ち勝つことができるのです。


 復活、それは未知の世界ですが、確かにあることを聖書は告げているのです。死に勝利する復活があるからこそ、次のように言えるのです。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(同58)。

2018年11月4日の礼拝宣教から

『死者の復活』コリント一 15章12-34節

主幹牧師 津村春英

 コリント信徒への手紙一」もいよいよ佳境に入ります。それは復活問題です。パウロは次のように書いています。 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」(15:12)「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(同14)。このように、キリスト教会で一番重要なのはキリストの復活であり、それに続くキリストに属する者の復活です。作家の遠藤周作氏も「復活」ということを臨終に際して強烈にアピールして死んで行ったといわれます(遠藤順子『夫の宿題』)。


 さらに、パウロが「希望」と言うとき、それは復活にあずかるという希望です。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:2-5)。復活の希望があるからこそ、どんな試練にも耐えることができるのです。また、先に逝った人々との再会の希望があるのです。

2018年10月28日の礼拝宣教から

『福音によって救われる』コリント一 15章1-11節

主幹牧師 津村春英

 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」(15:1)とパウロは言います。「もう一度知らせる」は、12:3では「言っておきたい」と訳され、「生活のよりどころとしている」の直訳は、「あなたがたがその(福音の)中にずっと立ってきた」であります。しかも、その福音は、「わたしも受けたものです」(同3)とあるように、パウロにも伝えられた「伝承」なのです。福音、それは神から与えられた恵みです。福音、それは主イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架におかかりになり、墓に葬られましたが、神によって三日目によみがえらされ、弟子たちに現れてくださったことです。そして、同じ主がエマオの途上の出来事のように、私たちにも現われてくださるのです。


 N.T.ライトは次のように書いています。「あなたの問題を、あなたの苦しみを、クレオパとその同行者と共にエマオへの途上に持ってきてください。歩み寄る見知らぬ人と共に、祈りの中でそれを分かち合うように備えてください。そして、起こっていることがらに対して聖書を引用して解きあかし、あなたを前方へと導き、あなたの心を熱くするイエスの御声を聞くことを学んでください」( “Luke for Everyone”)。私たちはこの福音によって(通して)救われます。そして、救われているのです。