2019年4月14日の礼拝宣教から  

『弟子たちとエルサレム』 ルカによる福音書19章28-44節

主幹牧師 津村春英

 「お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」(ルカ19: 44)。これは、紀元70年にあったエルサレム崩壊の預言です。この「時」はギリシア語のカイロス(ちょうどふさわしい時)で、43節の「時」ヘーメラとは違います。このカイロスを知らなければ(わきまえなければ)なりません。主イエスは何のために旅を続けて来られたのでしょうか。弟子たちはどうですか。エルサレムの人々はどうでしたか。イエスは都のために泣いて言われたとあります。「エルサレム、お前も平和の道を知っていたなら滅ぶことはないのに」。それは、都エルサレムにはイエスを受け入れる準備ができていなかったからです。弟子たちとて例外ではありませんでした。やがて、ローマ軍が押し寄せてきます(実際には約40年後)。

 では、私たちにとって、主が訪れてくださる準備ができていますか。一週間もしないうちに主イエスは十字架におかかりになる。一体誰のため?何のため?それは、エルサレムの人々のため、群れを成す弟子たちのため、そして時代を超えて私たちのためではないでしょうか。私たちの罪の身代わりとなって十字架におかかり下さった主に心から感謝する特別な一週間、受難週でありますように。

2019年4月7日の礼拝宣教から

『キリストにあって取り除かれるもの』 コリント信徒への手紙二3章7-18節

主幹牧師 津村春英

 年号が5月から「令和」になると報じられました。読みの音は「例話」であり「霊は」でもあります。パウロはこの「霊」について書いています。パウロは、霊に仕える務め(3:8)である福音宣教は栄光に満ちていると表現しました。古い契約(律法)は確かに素晴らしいのですが、律法は人に罪を気付かせるだけで、そこには救いがなく、キリストによる新しい契約の務め(霊に仕える)は人々に罪の赦しを与え、救いを与えるとパウロは言っています。

 「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」(同16, 17)「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(同18)とあります。ここは難解な箇所ですが、下線部は「鏡のように主の栄光を見つつ」(cf.コリント一13:12)とも訳せます。「覆い」は外の相手から見えなくするとともに、自分も見えなくなってしまうものです。キリストの霊は、私たちの心の覆いを取り除き、私たちに命(6.霊は生かす)と自由(17b)と輝き・栄光(18)を与えるとあります。キリストにあって、そうしていただきたいと思います。

2019年3月31日の礼拝宣教から

『あなたがたはキリストの手紙』 コリント信徒への手紙二3章1-6節

主幹牧師 津村春英

 17世紀のオランダの画家ヨハネス・フェルメール展で「手紙を書く女」を見ました。女性のなにげない日常生活の一場面を捉え表現したものですが、鑑賞者はこの絵から何らかのメッセージを読み取ろうとします。パウロの時代には「手紙」が重要なコミュニケーション手段でした。コリントの教会に複数の手紙を書いたと思われます。「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(3:3)とあります。前半部分の直訳は、「あなたがたは、私たちによって奉仕されたキリストの手紙です」となります。パウロたちの働きを通してコリントの教会の人々の心にキリストが書かれたというのです。石の板とは、モーセが刻んだ粘土板の十戒(古い契約)を意味し、他方、心の板にはイエス・キリストの新しい契約(同6)が書かれました。

 私たちも、これまでの信仰の人生で、色々な人々に奉仕された(お世話になり、教えていただき、愛していただいた)手紙であるとするならば、どのように書かれてあるのでしょうか。どんな人に何を書いてもらいましたか。キリストが確かに書かれていますか。感謝を忘れず、その期待に少しでも応えることのできる日々を送りたいものです。

2019年3月24日の礼拝宣教から

『キリストの勝利の行進に連なる』コリント信徒への手紙二2章5-17節

主幹牧師 津村春英

 選抜高校野球が始まりました。開会式には入場行進がありますが、古代の戦いにおける勝利の行進(凱旋)のときには、香をたいたそうです。パウロは、「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」(2:14)と書いています。キリストは私たちの身代わりとなり、犠牲となって、ご自身を神に献げられる香り(ユーオディア)となられたのです。そして、このキリストを信じる者もその香りを放つ者になるとあります。

 では、キリストの勝利の行進に連なるためには、わたしたちはどうあるべきでしょうか。その一つは、人を赦すことだとパウロは言います。「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。」(同10)。

 故F兄は、長年にわたり教育者として社会で貢献された後、晩年に救い主イエス・キリストを受け入れられました。その後、いわれのないことで非難され、人を赦すことの難しさにずいぶん悩んでおられた時期がありましたが、毎日曜日の玄関看板書きのご奉仕を通して克服されていかれました。わたしたちがキリストの勝利の行進に連なるために何をなすべきでしょうか。

2019年3月17日の礼拝宣教から 

『愛を知ってもらうために』 コリント信徒への手紙二1章23-2章4節

主幹牧師 津村春英

 幼児虐待のニュースが絶えません。「しつけ」という名の虐待もあります。パウロはコリントの教会に、キリスト者たちの信仰が確立されることを願って手紙を書き送りました。「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした」(2:4)。

 主イエスがエルサレムに近いベタニアに行かれた時、マルタとマリアの兄弟ラザロが死んで葬られたと聞き、「どこに葬ったのか」と言われ、人々が「主よ、来て、御覧ください」と言った後、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)とあります。これは愛の涙です。

 肺癌で若くして召された原崎百子さんの手記に次のような言葉があります。「あなたがたは信ずるだろうか、この母があなたたちをこよなく愛していることを。一人一人を、どのひとりをもかけがいのないものとして、こんなにも切ない思いで愛していることを。…あなたがたが、この母の愛をもし信ずるならば、どうか信じてほしい、神様の愛を信じてほしい。一人一人をかけがいのないものとして、いつくしんでくださっている神様の愛を、信じて欲しい」(原崎百子『わが涙よ歌となれ』)。神様の愛に感謝し、周りの人を心から愛せるよう祈りましょう。