2021年9月5日の礼拝宣教から

「ピスガの頂から」  申命記34章1-8節

牧師 津村春英

 我が国の首相になり得る自民党総裁選が行われるようです。後継者(精神的なものまで受け継ぐ意で、継承者の方が適切か)は誰になるのか興味深いのですが、残念ながら私たちの手の届かぬところで選ばれます。

 出エジプトを指導してきたモーセの後継者としてヨシュアが主によって立てられ、モーセは約束の地を前にして自らの終焉の時を迎えます。「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。」(34:1)「あなたはしかし、そこに渡っていくことはできない」(同4)とありますが、それに対するモーセの言葉は記されていません。申命記では、すでに 1:37; 3:27; 31:1; 32:4で、モーセ自身はそこには入っていくことができないと繰り返し言われてきたこともあり、悔しいとか残念だとかいう思いよりも、むしろ、信仰によって、今までの歩みを感謝し、自分の使命を果たし得たことに満足して、示された地を見渡したのではないかと筆者は考えます。ちなみに、服部嘉明師は、1、4、5節に「主」が繰り返されていることを指摘し、それは「神ヤハゥエの主権的なみわざ」であると周囲の人々は確信していたと解釈しています。さて、私たちも経験する人生の「ピスガの頂」では、主が示されるところをどのような思いで見渡すのでしょうか。