2020年8月9日の礼拝宣教から

『誰を捜しているのか』 ヨハネ福音書18章1-11節

牧師 津村春英

 最後の晩餐の後、主イエスと弟子たちはエルサレムの都を出てオリーブ山のゲッセマネの園に行きました。そこにユダに導かれたローマの一隊の兵士と神殿警護の者たちがイエスを捕えにやって来ました。「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた。 彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『わたしである』と言われた。」(18:4, 5)とあります。「わたしである」(ギリシア語エゴー・エイミ)は、出エジプト3:14などの「わたしはある」という神、また、ヨハネ福音書ではエゴー・エイミ「わたしは~です」(命のパン、世の光、羊の門、良い羊飼い、復活・命、道・真理・命、まことのぶどうの木)と響き合います。それに対し、彼らの言う「ナザレのイエス」には、救い主の意味合いはありません。

 今日は「長崎原爆の日祈念式典」が行われます。被爆され、奥様を失われた故永井隆博士は、「甘い杯も苦い杯もそれぞれ天主の愛の摂理によって与えられた最上の賜である」(『この子を残して』)と書いておられるように、いつも、主を見ておられたのではないでしょうか。コロナ禍のもと、わたしたちは不安の日々を送っていますが、どんな時も、どんなところでも、「わたしである」と言われる主を見出すことができるようにと教えられます。