2025年4月12日の礼拝宣教から

「目は遮られていて」 ルカによる福音書24章13-27節

津村春英牧師

 イエスが復活されたと聞いた二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオ(約11km:当教会から門真市のPanasonic社ほどの距離)という村へ向かって歩きながら、話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められました。「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」(24:16)とあります。下線部の原語は「力」の関連語で、何らかの力を受けて目が捕えられていて見ることができない状態を意味します。では、何の力でしょうか…。それは神の力であり、信仰が試されるためだったと考えられます(cf.ヨハネ福音書20:29「見ないのに信じる人は、幸いである」)。

 創世記22章のアブラハムが、独り子イサクをささげよという神の命令に従うシーンで、アブラハムが息子イサクに本当のことを言うことができず、心に痛みを感じつつ歩み、ついにイサクに向かって刃物を振り下ろそうとしたその瞬間、天から声があり、目を上げるとイサクに替わる雄羊が見え、事なきを得ます。アブラハムは試みを受けるために(創22:1)、目が神により遮られますが、神はアブラハムの一挙手一投足をずっと見ておられたということです。

 私たちも目が遮られて見えないときもありますが、信じることです。最善をなしてくださる主がともにいてくださると信じ、希望を持って歩みましょう!