2020年11月22日の礼拝宣教から

『イエスの弟子として』 ヨハネの福音書21章20-25節

牧師 津村春英

 “ウィズコロナ”か“ゼロコロナ”か、国によって方針が違います。今、わたしたちはいかに生き抜くべきかが問われています。主イエスの弟子としていかに生きるかが、キリスト者として問われます。「あなたはわたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)と主イエスはペトロに言われました。ここでは、「あなたは」が強調されています。

 「弟子」は、ギリシア語ではマセーテースでマンサノー(学ぶ)と関連があります。英語ではDiscipleとFollowerが用いられ、前者はラテン語からの「学ぶ」という意味合いがあり、後者は追随する者、真似る者です。ディートリヒ・ボンヘッファーは、「安価な恵みは,悔い改め抜きの赦しの宣教であり,教会戒規抜きの洗礼であり,罪の告白抜きの聖餐であり,個人的な告解抜きの赦罪である。安価な恵みは服従のない恵みであり,十字架のない恵みであり,生きた人となり給うたイエス・キリスト不在の恵みである。」(『キリストに従う ボンヘッファー選集3』森平太訳、新教出版社、1966.)と言い、ドイツ語のNachfolge(服従、信従、キリストに従う)という語を使っています。わたしたちは、イエスの弟子でしょうか。弟子であるなら、学ぶだけでなく、イエスの後に続く者でなければなりません。