2020年7月5日の礼拝宣教から 

『弟子となるために』ヨハネ福音書15章1-10節

牧師 津村春英

 コロナ禍のもと、ヨハネ福音書を読んでみたいと思います。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(15:1, 2)とあります。ある注解者は、切られる枝の犠牲によって他の枝に実がなると誤解していますが、その枝そのものの一部が切られることによってもっと豊かに実るのです。人生において疫病のような突如襲いかかるものもあり、信仰者も数々の試練を経験します。例外はありません。しかし、それが実を豊かに実らせるためであるとするならどうでしょうか。このぶどうの木のたとえの背景に、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」(6:66)ことと、会堂追放(9:22; 12:42; 16:2)という厳しい現実があるのを見落としてはなりません。

 また、先に、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(13:35)という弟子の憲章があり、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(15:8)とあります。弟子は、主イエスのうちにとどまって(つながって)、互いに愛し合うという実を結ぶよう期待されているのです。