2019年4月7日の礼拝宣教から

『キリストにあって取り除かれるもの』 コリント信徒への手紙二3章7-18節

主幹牧師 津村春英

 年号が5月から「令和」になると報じられました。読みの音は「例話」であり「霊は」でもあります。パウロはこの「霊」について書いています。パウロは、霊に仕える務め(3:8)である福音宣教は栄光に満ちていると表現しました。古い契約(律法)は確かに素晴らしいのですが、律法は人に罪を気付かせるだけで、そこには救いがなく、キリストによる新しい契約の務め(霊に仕える)は人々に罪の赦しを与え、救いを与えるとパウロは言っています。

 「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」(同16, 17)「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(同18)とあります。ここは難解な箇所ですが、下線部は「鏡のように主の栄光を見つつ」(cf.コリント一13:12)とも訳せます。「覆い」は外の相手から見えなくするとともに、自分も見えなくなってしまうものです。キリストの霊は、私たちの心の覆いを取り除き、私たちに命(6.霊は生かす)と自由(17b)と輝き・栄光(18)を与えるとあります。キリストにあって、そうしていただきたいと思います。