2025年6月15日の礼拝宣教から

「走り寄る父の愛」 ルカによる福音書15章11-24節

津村春英牧師

 「見失った羊」、「なくなった銀貨」のたとえに続く「いなくなった息子」のたとえは、「放蕩息子」のたとえとしてよく知られています。前二者に比べ、意識的にあるべきところから外れたケースです。生存している父から遺産をもらい(後代のミシュナやタルムードから、生前贈与はあり得たと推察)、換金して遠い国に旅に出、放蕩の限りを尽くして散財し、落ちぶれて、行きついたところはユダヤ人の嫌悪する豚の飼育でした。その飼料のいなご豆(モロッコインゲンの短いものに似ている)のさやを食べたいほどだったと書かれています。そこでやっと気づき、父のもとに帰ります。父は彼を見つけるやいなや、走り寄って抱きしめたというのです。さらに、服、指輪、履物などを与えて息子の復権を図り、宴会を僕たちに指示しました。これは「愛の神のたとえ」です。

 肉親の父に抱かれたことは、「覚えていないだけ」(cf.映画「武士の家計簿」の終わりのシーンの父のことば)かもしれません。霊の父(ヘブライ12:10)は、私たちが本来いるべきところに帰ることを望んでおられます。この父のもとに帰りましょう!父なる神は走り寄って迎えてくださいます。そして、ギュッと抱きしめてくださいます。