「私たちの喜びが満ちあふれるために」 ヨハネの手紙一 1章1-4節
津村春英牧師
ツツジは、「人が足を止めて見るほど美しい」といわれ、漢字で躑躅と書くそうです。私も立ち止って宣教を再考し、改めてヨハネの手紙一(以後、ヨハネ一)に取り組みます。ヨハネ福音書とヨハネ一とは、語彙や思想などの類似から相関していることが知られますが、前者はパレスチナ・シリア付近で書かれ、後者はエフェソに強い伝承があります。
ヨハネ一は、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」(1:1)で始まります。これは福音書1:1-18に表されている主イエス・キリストのことです。聞く、見る、触れるは遠近法で、著者があたかも復活の目撃者のように書かれています。また、この教会(共同体)は、キリストを否む異端者たちが去って行った(2:19)という危機的状況にありました。だからこそ、「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(1:4)とあるのです。読者を含めたこの「喜び」は決して浅薄なものではなく、苦難の中にあっても奪われない喜びです。それはフィリピ獄中のパウロとシラスの賛美と祈りにも似た、復活の希望と終末論的救いという喜びです。私たちもこの喜びを自分のものとしなければなりません。