『安らぎが得られる』 マタイ福音書11章25-30節
牧師 津村春英
家の中でずっと動いているものは時計です。たまには休ませてあげたいと思います。エアコンや冷蔵庫は設定温度により時々止まります。私たちの心臓は生まれた時からずっと動きっぱなしですが、心身の休養は必要です。
主は言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(11:28)と。原語から想像すると、「疲れた者」とは、一生懸命働いて疲れ果てた人であり、「重荷を負う者」とは、ずっと荷を負わされっぱなしの人です。さらに、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(29)と続けられました。確かに、柔和な人と接すると自分も柔和になることを教えられ、また、謙遜な人に出会うと謙遜を教えられます。「安らぎを得られる」と訳されているのは、休養を意味します。つまり、前の「休ませて上げよう」(28)という語と響き合っているのです。
このように、安らぎを得るためには主イエスの軛を負う必要があります。この方は十字架、復活、昇天を経て、やがて再臨されるのです。この方と軛を共にすることにより、その十字架により罪が赦され、その復活により永遠の命の約束にあずかるのです。あなたの軛は、主とつながっていますか。緩んではいませんか。しっかりと結びつけ、安らぎを得ましょう。