2021年6月27日の礼拝宣教から

『何を蒔いてきたか』 ガラテヤ書6章1-10節

牧師 津村春英

使徒パウロは、ガラテヤ地方に住むキリスト者たちに、割礼のような律法によってではなく、信仰によって人は救われると説き、「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」(6:2)と勧めています。重荷(バロス)は日常生活の苦労です。「キリストの律法」とは5:13の「隣人を自分のように愛しなさい」に表されています。さらに、「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。…めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」(6:4,5)とありますが、この重荷(フォルティオン)は、自分が現在、負っているものであり、また、神さまから与えられている使命でもあります。次に、「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」(同7)とあり、「肉に蒔くか、善に蒔くか」(同8)と問われています。これらは5:16-25の肉の業、霊の結ぶ実と響き合っています。

さて、私たちは過去に何を蒔いてきましたか。現在は何を蒔いていますか。そして、これから未来に向かって何を蒔きますか。いずれも自分で刈り取ることになるのです。その刈り取りの日が来るまで、失望せずに霊に導かれて良いもの(=善、すなわち霊の結ぶ実)を蒔き続けましょう!