2025年2月23日の礼拝宣教から     

「外側と内側」 ルカによる福音書11章37-54節

津村春英牧師

 聖書の中には、主イエスに対峙する主流派として、サドカイ派(ダビデの時代の祭司ツァドクが祖)とファリサイ派(前2世紀のマカベヤ戦争のハシディーム(敬虔な人々)に起源)が登場します。歴史家はさらにエッセネ派を加えます。大まかに言えば、サドカイ派は神殿に執着し、貴族階級を構成したのに対し、ファリサイ派(律法学者や律法の専門家も含む)は律法に関心があり、細部にわたる規定を設け、先祖の言い伝えを守り、祭儀的清めを求めました。

 イエスは、ファリサイ派の人に食事に招かれた席上で、「39実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。…41ただ、器に中にあるものを人に施せ、そうすればあなたたちにはすべてのものが清くなる。」(11:39-41)と言われました。まず、人の内側を清くすれば、おのずから外側も清くなるというのです。41節をN.T.ライトは、「心の中にあるものを神に差し出しなさい。そうすれば、あなたがたにとって、すべてが清いものとなる。」(N.T.ライト『新約聖書講解4 すべての人のためのルカ福音書』津村春英訳、教文館、2025、p.217)と意訳しています。

 私たちはどうでしょうか。心の中にあるものをすべて神の前に差し出して、清めていただき、どんなことにも動じない平安を与えていただきたいものです。