2024年6月16日先週の礼拝宣教から

「はっきり見えているか」   ルカ福音書6章37-45節

津村春英牧師

 主イエスは弟子たちに言われました。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(6:37, 38)これは黄金律の続きで、裁きにはそれを量る基準があるはずで、下線部は「良い量り(メトロン)で」を意味します。

 また、「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」(同39,40)とありますが、道案内は「見える人」でなければならず、下線部は、頑張って修行を積むのではなく、ある目的のために整えられることで、目の見える案内人になることを指していると思われます。さらに、「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(同45)とあります。見える、見えない、の問題は、目そのものでなく、「心」であることがわかります。はっきり見えるようにていただきたいものです。