「あの方が歩まれたように」 ヨハネの手紙一2章1~6節
津村春英牧師
今日は母の日です。亡くして初めて分かることがあります。理解していなかったことに気付きます。母への感謝と共に、親孝行できなかったことを悔いています。マタイ福音書25章14節以降の「タラントンのたとえ」で、1タラントンの活用を期待され、主人から1タラントンを預けられた人の悲劇は、主人の愛を理解しておらず、しかもその結果を主人のせいにしたことでした。
では、私たちは神をどのように理解していますか。ヨハネの手紙一2章1-5節には、主イエスが私たちのためにヒラスモス(罪の贖いのいけにえ)となって私たちの罪を赦してくださり、また、最後の審判の時のパラクレートス(弁護者)としていてくださると書かれてあります。そして、神の戒め(みことば)を守るなら、神が愛であるということがわかると書かれています。さらに、「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」(2:6)と奨められています。主イエスはどのように歩まれましたか。ヨハネ福音書によると、父なる神をひたすら愛し、多くの様々な人を救われました。そして何よりも、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われ、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきである」と言われました(13:14)。「あの方が歩まれたように」、これが、私たちの目指す生き方です。